2010年
あざみエージェント
なぜか川柳が続く。
内田真理子は1950年生まれ、2001年川柳を始める、と奥付にある。
短い幻想小説のような、イメージが明快な句に面白いものが多い。
てっぺんのうすい空気を奪い合う
乗る筈の汽車たちまちに真葛原
振ってごらん底には君の知らぬ街
今日ママンが死んだ 迂回路をさがす
カミュ『異邦人』の名高い出だしを引用。迂回しないと大変なことになるのだろう。「母が死んだ」と「ママンが死んだ」では行き着く先が異なる。
残像のつぐみをむしる木曜日
「木曜日」がどうでもいいようでいて、「残像のつぐみをむしる」という奇異な動作を日常の中に定着させている。休日の「日曜日」や週の始まる「月曜日」だと印象が変わってくる。
勾玉へつながってゆく春の闇
今生の紐という紐 遠花火
醗酵をはじめる瓶の中の月
美しい毒だと思う天守閣
まぼろしの十一月を産みつける
非物質の「十一月」をあえて「まぼろしの」と言うことで、却って「産みつけ」られる生成途上の生々しさが出ている。
ふるさとの母には猫のお取り巻き
ほどかれて石は仏になってゆく
入ってしまえば退屈なおもちゃ箱
くちびるがはみだしてゆく地平線
マン・レイの「天文台の時―恋人たち」を想起させる。「地平線」もシュルレアリスム絵画によく現われる。
バスは終点孔雀の村にまよい込む
大仏の右の耳から鳩が出る
ゆくりなく斜めの線とすれちがう
まだ何も生まれていない水餃子
やがて手は森に育ってゆくきざし
汽車・建築・都市空間と身体との間の領域、形と材質の間の領域など、変容を起こしかけているところに興味が向いている。非日常の「おもちゃ箱」も入って固着してしまえば「退屈」なのだ。
ツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』に、日常に闖入してきた奇怪事に対し、どう解釈すべきか「ためらい」を覚えさせるのが幻想文学だとの説明があった気がするが(つまり龍も妖精もいるのが当たり前なので誰も驚かない世界を描くファンタジーは、ここでいう幻想文学とは別である)、そうした驚異の起こる領域を驚異としてではなく、半分は辛辣さ・毒気・知的解釈だけで片づいてしまうようなものとして扱い、奇怪事を描くというのが現代川柳のひとつの方法となっている気がする。
この句集はその中で、知的解釈よりは驚異を憧憬し、イメージを楽しむ方に重点が置かれているのではないか。
※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。
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