《歳時記の本丸に辿り着く》べく、倦まず弛まず季語の再検討を続ける前田霧人の個人誌「新歳時記通信」の第5号が出た。前号までと同様、全内容が同時にホームページでも公開されている。
前田霧人は有季定型墨守の立場には立っていない。むしろ逆だ。
《無季と有季の関係は、かつての地動説と天動説に似ている。無季は有季を否定するものではなく、むしろその根底に横たわり包含するものである。》(p.32)
《季語の本意本情ばかりが特筆されがちですが、全ての言葉はその言葉本来の本意本情に匹敵するものを持っています。鳳作の「海の旅」の句にある「星」や「海」や「旅」は季語などという概念を超越した、もっと大きな宇宙的な広がりを持った言葉でさえあります。》(p.32)
季語によらずとも何らかのコスモロジーが形成されていればよく、歳時記・季語はそのための代表的なツールの一つということであれば、私の立場とも近い。ここでいうコスモロジーとは外部にあるスタティックなものではなく、自己と外部との相関を含み込んだもののことである。
32ページの前記引用部分のあとに《歳時記の本丸に辿り着くつもりが、先に俳句の本丸に辿り着いてしまった》と言う前田霧人のまえに立ちふさがっているのは、例えば古神道と近代の国家神道の間に横たわる亀裂にも似た何かなのかもしれない。
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