らんの会
2011年
『ファウルボール』は『コンと鳴く』に続く嵯峨根鈴子の第2句集。
先の『コンと鳴く』でも憑く・憑かれる、魂の出入りするうつろな器としての身体といった形で他界性のモチーフは出ていたが、今度の句集もそれが観念的なものに終始せず、どろりとした生々しさを通して現われている。
全体は5章に分けられている。
以下は最初の章「まひまひかぶり」から。
野焼守しやがめば垂るる空のあり
てのひらのどろんと甘き山火かな
てつぺんのさみしくありぬ春の滝
老人の羽化くりかへすアスパラガス
蟇どこに触れても溢れけり
おほかみの句碑になめくぢなめくぢり
山国の底のうねりの鱁鮧(うるか)かな
白障子孤独二枚が擦れ合ひ
さまよへる舌を求めて煮凝れり
「空」も「山火」も「羽化」する「老人」も、その他のものたちも重いぬめりを帯びたものとして把握されている。ぬめりを帯びるのは無論表面であり、表面は異界に接する。そうした通路としての肌を持つものたちが異界の重量感と力を取り込む。《白障子孤独二枚が擦れ合ひ》の「孤独」という生な言葉が浮かないのは「擦れ合」う表面によって妖怪のごとき何ものかに変貌を遂げているからだし、一見表面という境界性=通路性と無縁に見える《てつぺんのさみしくありぬ春の滝》の「さみしさ」も「てつぺん」が虚空と接する・虚空としか接していないことによるものだし、また通常夏の季語である「滝」もここでは「春の滝」として別の季へと張り出し、そのはみ出すことの重さによって身体性を帯びている。「山国の底のうねり」のエネルギーを帯びた「鱁鮧」の重みや、「句碑」という表面を通じて憑き・憑かれあう「おほかみ」と、「なめくぢ」「なめくぢり」と表記までずれゆきながら見る見る増えてゆく蛞蝓たちも同様。身体はカラの器ではなく、ねばり、うごめく表面・境界によって異界の重さを交通させるものなのだ。
以下は2番目と3番目の章「紙飛行機」と「他所の街」から。
山つつじ雨にねばりの出できたる
楠若葉まんなか割つてロープウェイ
青葉木菟ポケットの手を出さないか
人体のここが開きます浮いてこい
この身体出やうかと思ふ紅葉鮒
白鳥のどこか煮崩れしたやうな
花冷えを捌かれてゆく鶏の心臓(はつ)
骨壺に入り切らざる百千鳥
しやぼん玉あるいは出口かも知れぬ
噴水の非常口から入りたまへ
できたての少年を得て蝿叩
東京や秋の手足を呼び寄せて
花野過ぎお囃子が過ぎ兵が過ぎ
在るものは亡きものを呼び龍の玉
「開」いたり、「手足を呼び寄せ」られたりする体と「出口」や「入口」となる「しやぼん玉」や「噴水」は、同じものである。この身体のアイデンティティ、生死や他者との通路となる身体の統一性は、皮膚がそのまま通路であるという矛盾に即くことによってのみ保たれている。錯乱や飛散の気配はここにはない。そうした危機を押さえ込んだダイナミズムが、どろりとした重さの中に封じ込められている。
以下は第4章の「卵」から。
貝柱そこで何をしてをるか
蛇が出てもうとりかへしつかぬ穴
恐竜の卵を茹でる春の昼
身体は火柱となる瀑布かな
冷酒やむしように明るき箱の中
八月のプールの底に眼をひらく
日輪のひとつきりなり鳰
へこと垂れほこと起ちたる傀儡かな
瞼のどこかぬかるむ嫁が君
手袋の永久に打ち消すもう片方
これらの句では欠如の相が目立ってくる。「とりかへしつかぬ穴」「明るき箱の中」「ひとつきり」の「日輪」、力なき「傀儡」等々。しかし欠如は単に欠如であるわけではない。「春の滝」の上にあった虚空がひとつの実在であったのと同様、「穴」も「箱」も「傀儡」も全て実在へと化けている。欠如自体の肉化という事態がここでは起きているのだ。とうに滅亡した「恐竜」の卵が茹でられるのも、そうした事情による。
以下は最後の章「右半分」から。
水底におほき砂山鬼やんま
新涼の岩絵具溶く薬ゆび
あさがほの白ばかりなる宿酔
ぬつと手が伸びてきのふの菜虫捕る
海市見て来たる横顔ばかりなり
嗅ぎ合うて青葉明りの檻と檻
たましひを入れ換へてやる浮いてこい
マネキンの口が並んで夕焼けて
かはほりのもつともらしく指があり
箱庭の柩ことりと灯が灯る
地震あとの朱がゆたかなり金魚玉
《嗅ぎ合うて青葉明りの檻と檻》の欠如体「檻」同士の「青葉明り」を取り込みつつの交感が一番如上の論理が見やすいが「たましひ」を入れ換えられる浮人形も、「口」以外の顔を欠如させたマネキンたちの生々しさも、「地震」のエネルギーを「朱」として取り込んだ「金魚玉」も、すべて境界が密着するという事件の現場としての表面に関わっている。
巻末には通常のあとがきの代わりに、「湯屋」と「芸者のお姐さん」にまつわる幻想的な幼時の記憶を綴ったエッセイが並べられている。
いわれてみればこの句集の他界性、生死やアイデンティティの揺らぎ自体を重い充実として表面にまつわらせる身体とは、妖しくも蠱惑的な他者たちとともにつかる湯のなかのそれのようなものなのかもしれない。
表題となっている「ファウルボール」もまさに境界を縫いながら外側へ逸れていくものである。《草の絮ファウルボールを追ひかけて》。この「草の絮」が現在の作者の位置と思われる。
※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。
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