「鬣」(代表:林桂、編集:水野真由美)2013年11月号から。
特集はロングインタビューを核とする「金子兜太に聞く戦後」と、最近鬣の会から出た句集、萩澤克子『母系の眉』、堀込学『午後の円盤』の書評。
暮尾淳、林桂による飯島耕一追悼記事もあり。
《(……)戦後俳句はいずれかの時期に終焉してしまった。しかし、その評価はなお今日的な問題である。》(林桂「「金子兜太に聞く戦後」のための前口上」)
《残るべきよい仕事をすれば残るというのは願いではあるが、夢でもあろう。特に批評が確立していない俳壇では、偉大な表現者をもあっという間に忘れることができる。例えば三十年後、金子兜太の評価はどのようなものになってるだろうか。》(同)
《それ(季語が全とか概念的てであるという考え方)に対して私たちは「季語が大事なことはもちろん分かっているけれど何が中心かといえば、人間を書き社会を書くということだ。こんな短い詩でも書けるんだということをやってかなきゃ駄目なんだ。そうでなければ戦後はよくならない」という気持ちだったですね。そこで現代俳句協会と俳人協会の対立というのがハッキリ出てくるわけです。》(特別インタビュー「金子兜太に聞く戦後」2013年7月7日 前橋文学館)
(八十年代に入り、朝日カルチャーの講師を引き受けてから)
《無理なことをやろうとするから男性の句は、からっぺた。女性の句はとてもいい。(中略)そのときから私は、もう自然とか社会な分け方は表現の世界では駄目だ。むしろそれよりも存在を大事にするという書き方、存在の始まりは感覚であるという書き方が大事であると考えました。》(同)
骨壺に嬰児老いゆく秋の蝶 萩澤克子
蜻蛉のかたち虚空に誰か棲む
三階を壊してひつじ雲呼ばふ 吉野わとすん
呉松(くれまつ)をいまも夢見の飛雪かな 外山一機(「創氏改名」より)
芸術は、いわゆる外的存在としての現実を認識しているのではない。――塚本明子
霜曇(しもぐもり)してゐる白菜畑(はくさいばたけ)かな 林 桂
外山一機の俳句時評は、「俳壇時評と俳句時評のあいだ」と題して、筑紫磐井『21世紀俳句時評』の“俳壇時評”性を批判。
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伊福部昭 交響ファンタジー「ゴジラVSキングギドラ」より
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