2011年
らんの会
句集の序文というものを初めて書かせていただいた。
今日手元に届いた、中村光三郎句集『春の距離』がそれである。
中村氏は鳴戸奈菜さんらの「らんの会」に属している1945年生まれ、60代の男性で、これが初の句集となる。
中村氏とは私は未だにお目にかかったことがないままなのだが、「らん」に書かせていただいたりした縁もあって鳴戸さんから声がかかり、僭越ながらお引き受けすることになった。
「らん」は送っていただいていたので、作品もそこで見ていたはずなのだが、雑誌でバラバラに見ているときと句集としてまとめたときの印象の違いが大きくて、まとめて見て初めて独自のコスモロジーが立ち上がってくる、そういうタイプの作者である。
桃二つ一つは無言のためだけに
梅を干す笊はきままに空を飛び
らっきょうや空を涼しく蓄えん
捨て白菜ひっそり髭の生いにけり
人にあるあなこそうれし初日の出
人も鳥葉桜に謎かけられて
耳かきが岬まわるよ歌いつつ
苺嚙めばどこぞの人の泡立ちぬ
老鶯の行方やたれも昼餉にて
水底を母が泳いでいる河骨
初しぐれ五臓六腑にだまし絵も
茶の花に奥などなけれど奥謀反
春立ちて最初の駅は水の中
蓮咲いてひとりのこらず雲の中
長雨や人のたまごか野に青む
乳房また秋風と男愉しめり
風花に老人少し混ぜてあり
どの部屋も覗けば落花開けられぬ
瀧一本うらから眺める男娼(おとこ)ども
青葉木菟枕の中に空の堀
私は序文で《桃二つ一つは無言のためだけに》を引き、中村氏の句を成り立たせる特徴・構成原理として次のようなことを書いている。
《ひとつは「無言」によって読者を不分明な領域へと誘い込み、同時に、まさにその寡黙さによってその内部へと踏み入ることを不可能にしてしまう、誘引と拒絶が出入口一枚によって組織されたかのような奥行きの見通せない迷宮性であり、もうひとつは、二つ並べられた桃のうち一方のみがひたすら寡黙性を担わなければならないという非対称性である。》
そして、句のなかから非対称・不均衡・迷宮・惑乱のモチーフを拾いつつ、次のようなことも。
《中村光三郎における身体とは、内部から閉め出された孤独がはみ出して不均衡を形成し、そのまま固まったような、身近にして切り詰められた最小限の混沌を生成する現場としてあるようである
これは器官ではなく人に対しても似たことが言える。人も名や顔を持つ人格的統合体としてではなく、《寒の耳ひとつひとつが右の耳》に見られるような、それらを欠いた群衆、どこか悲劇性の翳りを帯びた量的な塊として現われるのである。》
ただし句集全てが寂しい一方に終始するわけではない。
例えば《捨て白菜ひっそり髭の生いにけり》などもまさに寂しさが外まで突出した句ではあるのだが、そのなかに玄妙なユーモアも感じられる。
そうした微細なユーモアや色気の要素も随所にひそんでいる、手ごわくも興趣尽きない句集である。
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リゲティ:ポエム・サンフォニック - 100台のメトロノームのための(György Ligeti - Poème Symphonique For 100 Metronomes)
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