2011年
文學の森
栗林浩『続々俳人探訪』は、評伝と句の鑑賞とを併せたエッセイ5篇と、他に「短編集」と題して同種の文4篇を収める(「続々」というからには本書の前に「正」と「続」があるはずだが、そちらは未見)。
目次は以下のとおり。
一、入門――攝津幸彦と田中裕明
二、柴田白葉女
三、寺田京子探訪――白いベレーの俳人
四、佐藤鬼房――その俳人像
五、神生彩史と少し片山桃史
六、短編集
六―一 林田紀音夫余滴
六―二 島村元の俳句と写生論
六―三 抗議の自決――野村秋介
六―四 渡邊白泉句碑完成
関係者への取材過程ややり取りなどがノンフィクション風に逐一入っているわけではなく、各俳人の生涯をたどりなおしつつ句を読んでいくという構成だが、とはいってもむかしの国文学系の論文のように、作品を作者の実人生に還元して読み方を貧しく限定していくというものでもなく、読んでいると、なにか、それぞれの俳人の人生と作品それ自体が、ひとつの景勝地や歌枕のように感じられてきて、紀行文を楽しんでいるような気にもなってくる。「俳人」自体が「探訪」する先となっているというべきか。
取り上げられた俳人たちの並びは一見何の脈絡もなさげに見えるが、いずれも薄命であったり、多病であったり、俳句史的にもう少し日が当たってほしかったりという、何らかの意味で不遇な人が多い。そうした彼らの復権を著者が声高に主張しているわけでは全然ないのだが、この選び方自体がひとつの姿勢の現われなのだろう。
佐藤鬼房の俳句史的な位置付けを探った一篇も力作だったが、個人的には、何となく気になりつつ人物像も代表句もあまり知らずにいた柴田白葉女のアウトラインをたどれたのがありがたかった。
「俳句界」2011年3月号にも白葉女の特集記事があったが、蛇笏賞作家でありながら、非業の最期が衝撃的に過ぎたためか、さほど言及される機会もなくきてしまったこの蛇笏の弟子の、《永年培った美意識》と《奥深い詩情》をたたえた句が通覧でき、《伝統的な形の整った、自己主張の少ない、地味だが明るさや美しさを求める俳句》の作り手という容貌がはっきりしてきた気がする。
以下は本文で引かれている白葉女の句から。
きさらぎの丹塗りの籠に鳥居らず 第一句集『冬椿』
陸奥の海くらく濤たち春祭
水鳥のしづかに己が身を流す 第二句集『遠い橋』
みみずももいろ土の愉しき朝ぐもり 第三句集『岬の日』
秋の八ヶ岳みてゐて師の死諾はず 第四句集『夕浪』
深海の色を選びぬ更衣 第五句集『冬泉』
竹には竹の杉には杉の秋の風 第六句集『朝の木』
一切空夫婦にしらしら暖炉燃ゆ 第七句集『月の笛』
本文から、表記ミスの話ひとつ。
《たまたま俳句の表記について話題が及んだとき、宮崎(引用者註:夕美)さんは白葉女の句集に触れ、
「表記ミスはこわいですね。先生の『月の笛』の帯文の冒頭に〈まんさくは薄目の力溜めて咲く〉がありますが、「薄目」でなく「薄日」の間違いなんです
と教えてくれた。》
※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。
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