ふらんす堂
2010年
去年池田澄子さんから句集を何点か頂いて、いずれ何か書きますなどと言いつつ何も書けないでいるうちに先日さらにこの新著を頂いてしまった。ふらんす堂が出し始めた「シリーズ自句自解」の、これが1冊目になるらしい(ちなみにオビにあった次回配本予告は「小川軽舟」)。
俳句とあまり縁のない人が単にエッセイとして読んでも面白いというものだし、私がブログに上げても売れ行きにはほとんど貢献できまいとは思うのだが、感じるところのあった箇所をいくつか抜いて紹介だけでもしておこう。
草いきれ振り向いて振り向かれけり
この句の自解ではシンクロニシティーから類想類句問題に連想が飛び、吟行で師・三橋敏雄とわずか3音しか違わない、ほとんど同じ句を偶然作ってしまったエピソードが語られる。
《先生は確か「鵙猛る」。私は確か「鵙の声」を取り合わせ、他は全て同じだった。同じものを一緒に見たあの時、同じことを思っていたのだということを思った。「鵙猛る」の方が点が入ったが、先生は私が「鵙猛る」としなかった意味を感じられた筈。先生の句も特に独自のものではなかったということで、先生も私もその句は捨てた。》
そういうわけでそのときの句は今はどちらも見られない。捨てた理由が「特に独自のものではなかった」というのが背筋の伸びる思いがする。
《咲けりと書けば乳房も夕顔も咲けり》の自解では《私個人の暮らしを人に知らせたい気持はさらさらない。/私をも含む諸々の儚いものは、書かれたことによって「咲いたもの」「在るもの」になる、のではないかしら》と語られ、この句の清潔感の因が改めてわかるが、個人の暮らしを知らせないということと、人や人の世への情や興味は全く別の話で、この本で面白かったところを抜き出してみると、その大半が具体的な人に関するところだった。
例えば《仮の世を仮に出てゆく雨合羽》。
《攝津幸彦への追悼句。あるいは恨みの言葉。「太古よりあゝ背後よりレエン・コオト 幸彦」には、俳句に関心を持ってすぐに惚れ込んだのだった。/「死して死を忘れ給うて後の月 澄子」もある。長いこと誰にも知らせず彼は死を思い続けていたのだった。後になってから、様々な言動が死を意識してのことであったことが解った。/通り過ぎて、引き返すことが出来ない時点で気が付くということは、これからも沢山あるのだろう。》
こうした堂々たる文学的回想のようなものばかりではなくて《カメラ構えて彼は菫を踏んでいる》では、「女は地図が読めず男は二つの事が出来ない」との説を踏まえて《方向音痴だというユーム君に、イケダさんの方向音痴は半端じゃないっすねと笑われたが、でも二つのことを同時にすることは出来る》などと、山口優夢らしき人物も登場。別にゴシップ的な興味でばかり読んでいるわけではないが、やはり人との距離感や関わりが見える記述が私には面白い。突き放した諧謔や潔癖さだけで池田澄子の句が出来ているわけではないのだ。
先生ありがとうございました冬日ひとつ
《何故か、先生は絶命された。私はお礼を申し上げる以外には何も考えられず、「ありがとうございました」と小さく声にして深くお辞儀をした。》
ブログに人さまの句を打ち込むようになってから追悼句もずいぶん見てきた気がするのだが、どうしても言いたいことの多さ、重さに句が負けることが少なくない。「先生ありがとうございました」は真率で、言われてしまえば後は使えぬ針の穴のストライクのような表現。思いの直叙を「先生ありがとうございました」に任せきってしまって、客観世界を担保するのが「冬日ひとつ」。命が「ひとつ」しかないこと、そして生から死への変化が「冬日」の運行のように人の都合から隔絶した絶対性を持っていること、その「冬日」のぬくみの中に大きな喪失を抱えた自分がまだ生かされ、「ひとつ」しかない「冬日」を寂しさそのもののように観じていることなどが、宗教的語彙とは無縁の地平でひとつの無駄もなく句に成っている。
自解は《先生が亡くなったのは二〇〇一年一二月一日。なんという、すっきりとした数字だこと》と句に照応してこちらも「すっきりと」していることから始まり、《病室を出ると、病院のテレビが雅子妃ご出産のニュースを報じていた。/気が付くと、美しい月の夜になっていた》と逝去から誕生、冬日から美しい月へと二つの入れ替わりが並べられ、説明臭くなることなく、句本体の物理法則への随順にも似た世界観に換喩的によりそいおおせている。教科書に載せたいようなエステティックな文章で、大きな喪失について語る文章が緊密な規範性の中にしなやかに納まり込むあたり、文の内容よりも、そのあり方が池田澄子句の何よりの「自解」になっていはしまいか。
太古より安産痛し時鳥
《あれは痛かった。(中略)でも、痛かったということを覚えてはいるが、その痛さ自体は思い出せないような気がするのが不思議である。》《下五の季語は、説明しがたいが「時鳥」でいいような。》
出目金魚(でめきん)の頭痛そう夢見月
《金魚は醜い魚である。淋しい魚である。遊女のような、飾り窓の中の化粧濃い人のような。なのにどうしてか金魚が好きだ。》
西瓜ほど重くなけれど志
《志には、容積はなくても重量はありそうな気がする。》
この辺りを読むと、そうそう、痛みというのは痛かったという言語情報は記憶出来ても痛みそのものは覚えていられないのですよとか、確かに志には重量はありそう、とか受け答えしてしまいたくなる。独演に終始せずに読者からついつい自然に応答を引き出してしまう辺り、単に人への情が濃いというだけのことではなくて、散文の中にも創見と“身だしなみ”が行き渡っているということであって、じつは俳句の世界では稀少な資質なのかもしれない。他者を引き込み、苦や軋轢を多声性とユーモアの場に転じることはいってみれば文学の本道なのだが。
2010年
去年池田澄子さんから句集を何点か頂いて、いずれ何か書きますなどと言いつつ何も書けないでいるうちに先日さらにこの新著を頂いてしまった。ふらんす堂が出し始めた「シリーズ自句自解」の、これが1冊目になるらしい(ちなみにオビにあった次回配本予告は「小川軽舟」)。
俳句とあまり縁のない人が単にエッセイとして読んでも面白いというものだし、私がブログに上げても売れ行きにはほとんど貢献できまいとは思うのだが、感じるところのあった箇所をいくつか抜いて紹介だけでもしておこう。
草いきれ振り向いて振り向かれけり
この句の自解ではシンクロニシティーから類想類句問題に連想が飛び、吟行で師・三橋敏雄とわずか3音しか違わない、ほとんど同じ句を偶然作ってしまったエピソードが語られる。
《先生は確か「鵙猛る」。私は確か「鵙の声」を取り合わせ、他は全て同じだった。同じものを一緒に見たあの時、同じことを思っていたのだということを思った。「鵙猛る」の方が点が入ったが、先生は私が「鵙猛る」としなかった意味を感じられた筈。先生の句も特に独自のものではなかったということで、先生も私もその句は捨てた。》
そういうわけでそのときの句は今はどちらも見られない。捨てた理由が「特に独自のものではなかった」というのが背筋の伸びる思いがする。
《咲けりと書けば乳房も夕顔も咲けり》の自解では《私個人の暮らしを人に知らせたい気持はさらさらない。/私をも含む諸々の儚いものは、書かれたことによって「咲いたもの」「在るもの」になる、のではないかしら》と語られ、この句の清潔感の因が改めてわかるが、個人の暮らしを知らせないということと、人や人の世への情や興味は全く別の話で、この本で面白かったところを抜き出してみると、その大半が具体的な人に関するところだった。
例えば《仮の世を仮に出てゆく雨合羽》。
《攝津幸彦への追悼句。あるいは恨みの言葉。「太古よりあゝ背後よりレエン・コオト 幸彦」には、俳句に関心を持ってすぐに惚れ込んだのだった。/「死して死を忘れ給うて後の月 澄子」もある。長いこと誰にも知らせず彼は死を思い続けていたのだった。後になってから、様々な言動が死を意識してのことであったことが解った。/通り過ぎて、引き返すことが出来ない時点で気が付くということは、これからも沢山あるのだろう。》
こうした堂々たる文学的回想のようなものばかりではなくて《カメラ構えて彼は菫を踏んでいる》では、「女は地図が読めず男は二つの事が出来ない」との説を踏まえて《方向音痴だというユーム君に、イケダさんの方向音痴は半端じゃないっすねと笑われたが、でも二つのことを同時にすることは出来る》などと、山口優夢らしき人物も登場。別にゴシップ的な興味でばかり読んでいるわけではないが、やはり人との距離感や関わりが見える記述が私には面白い。突き放した諧謔や潔癖さだけで池田澄子の句が出来ているわけではないのだ。
先生ありがとうございました冬日ひとつ
《何故か、先生は絶命された。私はお礼を申し上げる以外には何も考えられず、「ありがとうございました」と小さく声にして深くお辞儀をした。》
ブログに人さまの句を打ち込むようになってから追悼句もずいぶん見てきた気がするのだが、どうしても言いたいことの多さ、重さに句が負けることが少なくない。「先生ありがとうございました」は真率で、言われてしまえば後は使えぬ針の穴のストライクのような表現。思いの直叙を「先生ありがとうございました」に任せきってしまって、客観世界を担保するのが「冬日ひとつ」。命が「ひとつ」しかないこと、そして生から死への変化が「冬日」の運行のように人の都合から隔絶した絶対性を持っていること、その「冬日」のぬくみの中に大きな喪失を抱えた自分がまだ生かされ、「ひとつ」しかない「冬日」を寂しさそのもののように観じていることなどが、宗教的語彙とは無縁の地平でひとつの無駄もなく句に成っている。
自解は《先生が亡くなったのは二〇〇一年一二月一日。なんという、すっきりとした数字だこと》と句に照応してこちらも「すっきりと」していることから始まり、《病室を出ると、病院のテレビが雅子妃ご出産のニュースを報じていた。/気が付くと、美しい月の夜になっていた》と逝去から誕生、冬日から美しい月へと二つの入れ替わりが並べられ、説明臭くなることなく、句本体の物理法則への随順にも似た世界観に換喩的によりそいおおせている。教科書に載せたいようなエステティックな文章で、大きな喪失について語る文章が緊密な規範性の中にしなやかに納まり込むあたり、文の内容よりも、そのあり方が池田澄子句の何よりの「自解」になっていはしまいか。
太古より安産痛し時鳥
《あれは痛かった。(中略)でも、痛かったということを覚えてはいるが、その痛さ自体は思い出せないような気がするのが不思議である。》《下五の季語は、説明しがたいが「時鳥」でいいような。》
出目金魚(でめきん)の頭痛そう夢見月
《金魚は醜い魚である。淋しい魚である。遊女のような、飾り窓の中の化粧濃い人のような。なのにどうしてか金魚が好きだ。》
西瓜ほど重くなけれど志
《志には、容積はなくても重量はありそうな気がする。》
この辺りを読むと、そうそう、痛みというのは痛かったという言語情報は記憶出来ても痛みそのものは覚えていられないのですよとか、確かに志には重量はありそう、とか受け答えしてしまいたくなる。独演に終始せずに読者からついつい自然に応答を引き出してしまう辺り、単に人への情が濃いというだけのことではなくて、散文の中にも創見と“身だしなみ”が行き渡っているということであって、じつは俳句の世界では稀少な資質なのかもしれない。他者を引き込み、苦や軋轢を多声性とユーモアの場に転じることはいってみれば文学の本道なのだが。
関 悦史様
寒いですね。先日、太海に遊び、余りの寒さに季語が足りなくて困りました。「冴え返る」や「花冷え」ではどうにもならずデシタ。言葉にすると、寒いと書いても「春」になってしまうので、口惜しいったらないのでした。。
過日お会いした時に、「まだ書けなくてスミマセン」と仰ったので、わぁ「スミマセン」はイヤだなと恐縮し、またお送りしちゃってスミマセン、と口には出さず、思ったのでした。
お読みいただき、それだけで有り難いことですのに、評をいただき更に有り難うございます。一瞬、イケダスミコがかっこよく見えちゃいました。
ところで関さんも、二つのことは出来ない人のように見えますが、、、でしょ?踏むのは菫くらいまでにして、これからの俳句を見せてください。また、ぞっとさせてください。
投稿情報: 池田澄子 | 2010年3 月31日 (水) 12:23
池田澄子様
コメントありがとうございます。異常気象ネタはまず大概ろくな句にならないので頭の痛いことです。最近自然の側に季語に合わせてやろうという気遣いがあまり感じられませんね。
「二つのことは出来ない」はまさにその通りなのですが、それに加えてグズの大忙しが乗っかっている気がします。
句の方は作ってはいるのですが、出すところもないものでいずれまた週俳辺りで引き取ってもらおうかと。イケダスミコみたいに普段あまり俳句を読まない人にも面白がられるものを作りたいものです。
投稿情報: 関悦史 | 2010年3 月31日 (水) 20:01