2011年
角川学芸出版
『残像』は山口優夢の第1句集。栞は同じ「銀化」所属の櫂未知子。
山口優夢は『新撰21』参加後、昨年2010年、望月周とともに角川俳句賞を受賞。
既によく知られた《あぢさゐはすべて残像ではないか》《台風や薬缶に頭蓋ほどの闇》《心臓はひかりを知らず雪解川》《小鳥来る三億年の地層かな》等の句を含む。
既に『抒情なき世代』の著書を持つ山口優夢だが、当人の作風は至って抒情的といえ、その抒情を引き出すもの、引き出し方が従来とやや異なる、というのが実相ではないか。
例えば台風や心臓の句に見られるような、濡れた、重い体内感覚、それは単に気味の悪さをともなって実感を引き出すためにばかり機能しているわけではなく、この水気、潤いによって生じる平滑な連続性が、山口優夢においては、そのまま人や世界との繋がりと親しみを得ることに直結しており、引いてはその抒情の根拠ともなっている。
《花ふぶき椅子をかかへて立ち尽くす》《秋雨を見てゐるコインランドリー》などは、「花ふぶき」や「秋雨」によって得られた流動性・連続性の中で、世界に讃を捧げる己の図そのものと見える。
《戦争の次は花見のニュースなり》《ビルは更地に更地はビルに白日傘》《鍵束のごとく冷えたるすすきかな》のような、一見シニカルに見えたり、冷たい感触を生じさせたりする句たちも、全て「戦争」と「花見」が、「ビル」と「更地」が、「鍵束」と「すすき」がそれぞれ連続的変化において捉えられている。ビルも鍵束の冷えも峻拒する非情さにおいてではなく、外部性の手応えを残しつつも、全ては情と親和の相において句に現われるのだ。
《火葬場に絨毯があり窓があり》の、ことさら深刻でもなく非情でもなく、淡々と人の死に隣り合う物たちのとぼけた存在感も、そうした親和と違和との境に接して生まれている。
最初に並べた「あぢさゐ」「台風」「心臓」「小鳥来る」の句はいずれも、物自体の感触からやや離れて、イメージの世界に延び出したところにその句境が築かれている。
必ずしも物の質感的再現や、「花ふぶき」「秋雨」を見ている抒情の中にのみ、この作者の世界は限定されているわけではない。
そこから言葉とイメージを癒着させたまま虚へ突き出た句に現在までの最高の達成があるようだ。
雨は落ち煙はのぼる鵙の贄
公園の時計に映る春の雲
大広間へと手花火を取りに行く
淡雪や博物館に美しき骨
どこも夜水やうかんを切り分ける
坂に沿ひ商店街や冬の鳥
眼球のごとく濡れたる花氷
夜着いて朝発つ宿の金魚かな
どのビルも裏見せ雪の駐車場
きんつばに硬き四隅や春の空
黄金週間葉つぱのやうに暮らしけり
開けづらき網戸開くれば星ばかり
硝子器は蛍のごとく棚を出づ
口とがらす牛乳パック冬ぬくし
目の中を目薬まはるさくらかな
しらうをも市場も濡れてゐたりけり
昨日やどかりを見し浜の豪雨かな
オリオンや眼鏡のそばに人眠る
野遊びのつづきのやうに結婚す
※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。
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