邑書林
2011年
『水牛の余波』は川柳作家小池正博の第1句集。
先に『セレクション柳人6 小池正博集』が出ていて、今回の句集に収められているのはそれ以後の299句だが、《単独の句集として、本書をもって私の第1句集としたい》とあとがきにある。
評定の途中で鼻が増えてゆく
「評定」「途中」で長引いているらしい気配が出て、「鼻が増え」るがゴーゴリ的な馬鹿馬鹿しさと超現実を呼び込む。
どの箱を開ければ伊豆の海だろう
エンタシスの柱に消える大納言
古代ギリシア発祥の「エンタシス」が法隆寺にも取り入れられているのは周知だが、こう書かれると「大納言」が途端に世界史的な文化の伝播の中に不意に置きなおされ、爽快な眩暈を生む。
プラハまで行った靴なら親友だ
調律は飛鳥時代にすみました
空調機から降りてくる見知らぬおばさん
何ものだろうか、このおばさん。
鏡台の後ろあたりで増えている
何が。
角砂糖二つで異形のものと知る
応仁の乱も半ばに仮縫いへ
終末の帝国フロッタージュするかもね
「フロッタージュ」は硬貨の上に紙を乗せて鉛筆でこすると図柄が転写されるあれで、マックス・エルンストがシュルレアリスム絵画の技法として利用した。
「終末」を迎えた「帝国」が擦り出しの如くその痕跡を歴史に残すことが出来るのかとの意味にもさしあたり取れるが、「するかもね」という誰が言っているのかわからない口語調がまた微妙なずらしをかける。
「終末を迎えた帝国」なのではなく、「終末の帝国」という名前の帝国、あるいは「終末の帝国」という名を持っただけの帝国でもなんでもない別の何かなのかもしれない。
トイレまで付いてくるなという手紙
耳栓のありかを知らぬ三姉妹
城跡についてきたのは相似形
アリクイを手帖に挟み出社する
橋ふたつ渡るあいだに脱皮する
スポイトが秋の目玉を吸い込んだ
ステーキを切り分けている未来仏
高さとは少女のままでいることと
「耳栓」「脱皮」「目玉」「高さとは」などの、身体性からエロス、グロテスク、ナンセンスへと開けていく句もあくまで現代川柳ならではの軽やかさ。
言葉はイメージを呼び出しはするが物そのものではないというズレの間に、意味と無意味の響き合いを組織するのが現代川柳の言葉であり、小池正博はその優れた使い手である。
小池正博……1954年生まれ。「MANO」「バックストローク」「豈」「五七五定型」同人。評論集に『蕩尽の文芸―川柳と連句―』(まろうど社)。
※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します(今回からこの文言を入れておくことにした)。
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