今日更新された週刊俳句に、西原天気さんが「関悦史『60棒』をもっと愉しむためのサブテクスト集」というのを書いてくれていた。
その中に関悦史「断章三つ」というのが紹介されているのだが、掲載された『俳句空間−豈』第49号(2009年11月)特集「俳句の未来人は」を探して読むのは難しそうなので、ここに転載しておく。
なお文中後半の「ある批評家」の部分にはもともと批評家名が入っていたのだが、これはネット上で見た言説で現在は削除済みらしく確認不能なため修正した。
たかだか2年前に書いたものなのだが、今昔の感がある。
当時は豈weeklyが毎週更新されている最中だったのだ。
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断章三つ
「現代詩手帖」の特集版、『戦後六〇年〈詩と批評〉総展望』(二〇〇五年発行)を見ていたら、松浦寿輝の「わからなさについて」という一文が収録されていて、これは単行本『スローモーション』にも収められているものなので、私は十年前くらいに読んでいるはずなのだが、そこに何が書いてあったかはすっかり忘れていたにもかかわらず、内容的には私が今でも「詩的テクストが〈理解〉されたり〈共感〉に還元されたりしたらおしまいでしょう」などといった調子で自然に口にしそうなことばかりで、つまりある意味ここでのものの見方がすでに自分の血肉となっていたともいえる。「わからなさについて」の松浦寿輝は大岡信や山本健吉の啓蒙的鑑賞文を批判して次のように書く。
《すべてをこの「万人共感の世界」に収斂させてゆく等身大幻想の支配する批評言語の空間を、われわれはふつう「鑑賞」と呼んでいる。「鑑賞」とは、作品を「人間」に返し、ということはつまりそれを「人間」との等身大の尺度で測れるものに還元することによって、「わからない」ものを「わかる」ようにするための政治的装置なのである。》
《読むとは、「わかる」ことではないのである。われわれは、象にさわる盲人のようにして、読む。あるいは、もうとっくに眼には見えなくなってしまった無限小の箱をピンセットの先で生真面目に開きつづけている『第三の警官』の登場人物のようにして、読むほかない。いずれにせよ、「折々のうた」の筆者は、他の何をしているにせよ読むことだけは頑として回避しつづけている。読むとは、万人の共感によって支えられた等身大のスケールに言葉を押しこめて自足するなまぬるい「鑑賞」行為ではなく、「極大極小」に引き裂かれたガリヴァーの非人称的惑乱を耐えつづけるという苛酷な体験のことだからである。》
これが書かれたのは一九八五年で、今からすればある意味当たり前とすら見える真っ当な内容だが、その後、現代詩にしても現代俳句にしても、こういう見方が主流を占めたかといえばそうなっているようには到底見えず、反対に出来合いの「自己」にそのままやすやすと書く「主体」の位置を占めさせてしまった「私」語りの方が主と見えてしまって、それを批評的に解毒する言説も存在感を失う一方となり、もはや誰も文学に理解不能な怪物性など求めてはいないのではないかとすら思えなくもないのだが、俳句には純粋読者がいないという言説に対し、誰にも読まれないのであれば小説などと違って市場や一般読者の意を迎える必要もなく、何をやってもよいのではないかとプラスに取って一人で俳句を作ってきた者としては別にここで大勢に従う義理もない。最近短い作家論的エッセイを幾つか書いたが、そこで私がやろうとしていたことは概ね、その作家固有の構造を作品群から搾り出し、その結果として「わからない」と思われがちな作家、例えば安井浩司に対しては共感とは別の仕方での理解可能性を示すことであり、また逆に充分な共感と理解可能幻想に包まれている田中裕明のような作家に対してはその怪物性を抽出してみせることだった。
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小説執筆をもくろむ「私」につきまとい「それは、もう書かれている」と繰り返して「私」を意気阻喪させる「大宮伯爵」の言葉。
《あんたの仕事は、もう何も残っていない。もう誰かが、みんなそれをしてしまった。あんたに、もし仕事が残っているとするならば、それは既に書かれてしまったもののピリオドを、もっとはっきりさせるために、そのピリオドの大きさを二倍くらいの大きさに、そして二倍くらいの濃さに、鉛筆で綺麗になぞりなおすことしかないよ》(高柳重信「大宮伯爵の俳句即生活」)
ロマン主義的文脈からすればピリオドをなぞりなおすという営みはデッドエンドでしかないのかもしれない。前衛芸術集団「具体美術協会」のリーダーであった抽象画家吉原治良は、メンバーたちに対して新しい表現のみを求め、成功した作家を一度は褒めてもそのヴァリエーションに過ぎない作品に対しては「それはもう見た」と峻拒を示したそうなのだが、そうした既知性排除の権化のような吉原治良自身の代表作が、何と文字通りピリオドの形態をなぞり続けたような円環のみを大きく描いたシリーズであった。吉原治良の描く円環はひとつひとつが陶器のような生体的な歪みを持たされており、同じ形態をなぞり、繰り返した反復の過程ひとつひとつが固有の創造性の輝きを帯びていた。
「なぞりなおし」がデッドエンドではなく、むしろ創造性に結びついた例としては大江健三郎の「後期の仕事(レイト・ワーク)」の一群もある。以前から大江作品に頻出する同じエピソード、同じ人物が繰り返し用いられるにも関わらず、その都度文体の再構築により別な位相へと開けていき、結果として制作の営み全体が海洋性とでもいうべき広壮さを獲得するという奇観を呈している。
すべてが「もう書かれて」しまったこと自体から発する、自己模倣に終わらない創造的「ずれ」の展開の実例。
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本稿の依頼内容「二一世紀にあって新しい俳句の担い手たちは何を考え何に向かうか」に直接応答すると、私は受身であり、何も「考え」ていない。依頼や〆切が発生するとその都度、どう応えることが周囲への寄与となるかを思い、言葉を組織していくだけである。受身の態勢は、一寸先が読めず様々な予想外の急変に即応していかなければならない介護暮らしの間に習い性となったものだった。介護していた祖母の没後、一人になってからは、死の明るみの側から不定形の存在となってこの世=悦楽を観ているような感覚をしばしば持った。ただしこれをうかつに句作に持ち込もうとすると容易に「腐れユング」(村上春樹に対するある批評家の評言)に堕す。俳人が俳句観・世界観を語るとホーリズム的粗大さに接近しやすい。最近では長谷川櫂にその傾向が顕著だが、その長谷川櫂への批判を第四号他に含む豈weeklyでの高山れおなの歯に衣着せぬ時評活動は質量、速度と的確な整理ぶりで群を抜き、冨田拓也の連載ともども資料的な価値が高い。これと週刊俳句の「俳誌を読む」を合わせればゼロ年代後半以降の俳句界の動きはかなり網羅できるのではないか。「受身」の結果として私も時々両ウェブマガジンに投稿しているのだが、生活難の折から結社や協会の会費負担が困難というごく即物的な事情とも併せ、当面ウェブが主要な活動の場となることと思う。
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