「LOTUS」第20号(2011年秋)から。
先頃刊行された志賀康『山羊の虹 切れ/俳句行為の固有性を求めて』をめぐる同人諸氏による喧々諤々の座談会を掲載。出席者は北野元玄、九堂夜想、救仁郷由美子、酒巻英一郎、志賀康、鈴木純一、豊口陽子。
以下「特別作品」から。
黒鳥に太陽はいや冷えゆくも 九堂夜想
静物のほとりは昏く魚の朝
鏡石かの王母らは水を焚く
ホネガイは漂う少女群島を
噫、死児の頭上に千の太陽が
死児らふと爪むや蛇体なす光ゲを
春の月上るや四肢を軋ませて 曾根 毅
地震の午あまた蜜柑の生乾き
志賀康『山羊の虹』については週俳時評で触れたが、そこで探求されていた「切れ」転じて「開」は、最初から異界への開けを目指した場合、なぜか「開」ならぬ壁のような物理的圧迫感の句へと仕上がってしまうことが多いようで、上掲の九堂夜想の句も新たな場が生じるというよりは、奇怪な世界を映す鏡面に囲い込まれたような、息もつけない圧迫感をもって迫ってくるのだが、この卓絶したシュルレアリスティックな強度は、それはそれとして得がたい稀有なものだろう。
「少女群島」の喚起力と漂うホネガイの薄暗さなどからは、ミヒャエル・エンデの父、エドガー・エンデの油絵の雰囲気を連想した。個人としての顔を持たない存在たちのみが、暗いトーンの中で謎めいた悲劇的緊張を組織する世界である。
とはいってもエンデほど生真面目一方なわけではなく、バタイユ的ないかがわしさを伴う司祭じみた権威性や、吉岡実ふうの語彙による、事物の固い存在感が言葉によって徐々に眼前に生み出されていく、その秘蹟感へと集約するような形で介入する他界性など、いろいろな要素がミックスされているようだが。
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Marc-André Dalbavie : Sculpture in the dark
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