今回の記事は、俳句と何も関係がない。
今日、図書館に原稿を持ち込んで校正作業をやり、その帰りの夜道で奇妙な人物に出会った。
眼鏡に坊主頭の男性で、国道の坂下で「ここは何号線ですか」と訊かれ、6号だと答えると、嬉しそうに今度は「ああよかった、福島へ向かうのはどっちですか」という。
男性が向かっていたのは東京方面だったので、逆だと教えると、私と一緒に坂を上りはじめたが、「福島」という訊き方があまりに大雑把なので(ここは茨城県南部である)、一体どこまで行くつもりなのかと訊いたら、なんとこの男性、札幌からここまでずっと徒歩で旅してきており、このまま福島まで本当に歩きとおすつもりらしい。
札幌からスタートして東北地方の日本海側を延々と南下、新潟まで来て懐具合が怪しくなってきたのでそれ以上の南下を諦め、太平洋側へ転進、北関東を横断して(埼玉を通って来たらしい)、ここ茨城県土浦市まで来て反転、これから東北地方の太平洋側を、被災地を目に焼き付けながらずっと北上していくのだという。
札幌で教職に就いていたのだが辞めてしまい、特に旅好きでもなかったのだが思い立って徒歩の旅を始めたとのことで、ここまでヒッチハイクも鉄道も一切なし。
地図も持たずに大まかな見当と表示板だけを頼りに歩いているので、幹線道路から外れることはできない。
昼は暑いので主に夜に移動、安宿に泊ったり、野宿したりで、土浦では銭湯に入れたという。予算は最初に決めた額の枠内で済ませ、途中で増額などはしない。
ケータイで各地の写真を撮り、これは帰ってからブログか何かにまとめるつもりらしい。
ほとんど江戸時代の旅行というか、現代の「奥の細道」というか、よくまあここまで無事で来たものだと思うが、本人は、1ヶ月後には多分青森の実家についているからと、さして気負いもなくて、名前と実家の電話番号を教えてくれた。
「大坊」という珍しい名字だった。歳は42で、私とほぼ一緒。
実家のお母さんはこの旅のことは知っているそうだが、教職を辞めるときも無論のこと、旅に出るときも反対されたという。当たり前である。
国道125号との合流点までともに歩いて、メモ帳を破り、こちらの名前を書いて渡して別れた。ネットで検索すれば当ブログかツイッターにたどり着くはずである。
ブログのタイトルの「通りすぎた奴」というのは眉村卓の短篇SFで、何千階だか何万階だかわからないような超高層ビルが当たり前になった未来世界の話である。
語り手は普通の勤め人で、これが浮浪者じみた風体の奇妙な「旅人」と出会う。
「旅人」はエレベーターを使わず、1階から順に階段でビル世界を最上階まで踏破しようとしているのだという。意味や目的は別にない。
物好きな奴もいるものだと、そのときはそれで別れたが、以後「旅人」の消息がときどき噂で耳に入るようになる。「旅人」は何ヶ月もかけて次第に高層階に登っていき、それにつれて、いつの間にか聖者扱いされるようになる。
そして「旅人」がついに最上階にたどり着いたとき(結末を知りたくない人はこの先飛ばしてください)、奇蹟への期待を膨らませた人々は、彼がただの人として階下へ戻ることを許さず、疑念と殺気で追い詰め、進退きわまった「旅人」は窓の外へ身を投げてしまう。人々は聖者はより高い世界へ行ったのだと感激しあい、語り手も聖者と早いうちに知り合えたことに感動する、と概ねそのような話だった。
奇妙な世界での無意味な行動が引き起こした群衆心理を描いていて、眉村卓の短篇の中でも傑作のひとつだろうと思う。
今日出くわした「大坊」氏はまさかそのようなことにはなるまいが、今後の東北縦断の旅で、一体何を目にすることになるのだろうか。
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