2011年
ふらんす堂
『鶏』は彌榮浩樹の第1句集。すでによく知られた《鶴帰る滋賀銀行の灯りけり》等を収録し、所属する「銀化」の師・中原道夫が序文を、竹中宏が栞文を書いている。
どぎつさのない柔らかい作風ながら綺想に富んだ句集でまことに面白い。読んでいてマグリットを連想することがしばしばあったのだが、これはシュルレアリスムの画家なら誰でもいいというわけではなくて、用いられる手法と、そこから出てくる世界の風合いに共通点があるのだ。不合理ながら明快で、実存の濁りや重みといったものを拒否した、というより彌榮浩樹の場合は、それらからしなやかに身をそらしたといったほうが実状に近いだろうか。師の中原道夫の機知や綺想の、軽やかながら、ときに鎧か防壁のようにも感じられる硬質さは彌榮浩樹にはない。
彌榮浩樹の手法というのは、本来繋がらないもの同士を隣接=接続させて、一見平易な詠み口のなかに奇怪なイメージを含み込ませてしまうというものである。着想においては類似・連想による短絡(ショート)を用いて、技法においては句中の意味上の切れを逆用して繋ぐことに用いて、トロンプ・ルイユ(騙し絵)を形成するのだ。
マグリットが「煙」の連想から暖炉と蒸気機関車を短絡させたり、ニンジンとビール瓶を形の類似から隣接・癒着させてしまったり、女性の裸体をこれもパーツの配置の相似から人の顔にはめ込んでしまったりして、心理的な重くれとは無縁に、機知的で衝撃的なイメージを成立させ、しかもそこから象徴や寓意を読み取ることがほとんど意味がないために、謎だけが現実世界から抽出されたような、いかがわしくも画風としては端正で洒脱な作品として成立させているのと同じようにである。
よく糊のききたる空や梅の花
は空と衣類のイメージを「梅の花」を触媒として短絡させて、布としての空を形作ってしまっているし
くつきりとパンティーライン春の山
は中七の後で切ってしまえばただの取り合わせの句だが、あえて「パンティーラインを浮き立たせた女身のような春の山」を錯視させるように「春の」が機能している。
髭づらの満月のぼる桜餅
となると日常的常識に従えば上五「髭づらの」(作中人物が見ている)で切るのだろうと思いはするものの、もはや「髭づらの満月」のイメージが強すぎて満月に髭が生えているという絵柄が振り払いがたいといった具合である。
たつぷりと夜空ありけり茶摘籠
のような一見どうということのなさそうな句も、「たつぷりと」が「夜空」を物質化してしまっていて、「夜空」が茶の葉の代わりに茶摘籠との間に道ならぬ不穏な関係を取り結んでいる。
青空をわたる電流もずのにへ
この句などは《ひるがほに電流かよひゐはせぬか 三橋鷹女》が緊張に満ちた自意識を反映しているのに比べると、彌榮浩樹の世界感覚が見やすくなっているのではないかと思う。平仮名書きで不穏さの手応えを弱められた「もずのにへ」の緊張感は詠み手の内面とかかわることはなく、「青空」へと解放されてしまうのだ。
秋麗や雑巾なのか犬なのか
「秋麗」の非個体性の澄んだ明るさに包まれながら「雑巾なのか犬なのか」と併置されることで、そのどちらにも似ていながらどちらでもない名状しがたい物体が現われる。
この句の場合はどちらともつかない疑問を併置させることでイメージを打ち消し合わせ、奇妙なものの存在感のみを引き出しているのだが、否定形を使うことによって却って奇怪なイメージを打ち出している句もある。
生涯に使はぬ体位独活の花
鶏頭につむじのなくて星騒ぐ
添削で家は立たねど春の家
もみあげに花は咲かねど春の旅
これらの句では「生涯に使はぬ体位」「鶏頭につむじのなくて」「添削で家は立たねど」「もみあげに花は咲かねど」の否定形が、それぞれ却って、使われることのない体位そのもの、つむじのある鶏頭、たかだか添削によって立ってしまう家、花の咲いてしまったもみあげのイメージを明瞭に立ち上がらせ、表面上の意味内容の裏にぴったり張り付いて不穏に自己主張を始めさせてしまう。否定形が、あり得ない幻肢を発生させる。無意識には否定形はないからだ。
休日の鱏が並んでゐるところ
これなども否定形による錯視のヴァリエーションと言えるだろうか。「休日の」と限定されるとこの「鱏」たち、平日には勤めに出ていそうである。
この作者がその俳論で「写生」を強調するのは、実作において、放恣で手応えのない空想へと句が放散していく危険性を、たとえ大胆な「編集」を被っているにもせよ、現物のイメージが防いでくれているという機微があるのということと対応しているように思われる。
竹馬や星空に首突込みて
卒園の陶土でつくるきのこかな
鶯の声なり左曲がりなり
花の咲く大根を抜かせてもらふ
風船と留学生と混じりをり
待人来たらずいつまでも筍
浴槽に水張つてある曝書かな
速度計振り切れてゐる鷹の爪
秋晴の野菜でつくる犬の顔
紅葉山妻から紐の出てをりぬ
裏山は豪華な秋の金魚かな
風景の流れてをりぬ晦日蕎麦
つけられてゐるよおでんのこんにやくに
スポンジとたはしと冬の二条城
峠越ゆ木菟の眼ひとつづつはめて
おほさじに牛乳のこる桜かな
通帳の呑み込まれゆく躑躅かな
花時の淡き手が出て窓を拭く
人形の混み合ふ坂や梅の花
水鳥のいくつも浮かぶカプチーノ
教室のやうなうどん屋枯月夜
鯛焼に繋がりにくき電話かな
弟のすんとも言はぬ炬燵かな
冬の禽かならず齢を若く言ふ
さざんくわに古城のごときおろしそば
煙突か一輪差か百千鳥
秋刀魚さげて卓球場の前にゐる
猟期来て襞までひかるオムライス
黒板は永遠の知己鳰
なお彌榮浩樹は今年「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」で群像新人文学賞評論部門を受賞した(「群像」2011年6月号掲載)。
私はそれについて批判的な評を書いたのだが、これは主に彌榮浩樹が有季定型のみを予め優位に置く立場に合わせて立論していたためで、天動説と地動説のように立っているパラダイムがそもそも違うという位置関係からの批判だった。
その後、青木亮人が同じ週刊俳句誌上でもう少しきめ細かく彌榮論文の可能性を探っているので、そちらも参照されたい(有季定型と「写生」は結婚しうるか[1][2][3])。
※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。
コメントを投稿
コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。
アカウント情報
(名前は必須です。メールアドレスは公開されません。)
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。