2011年
ふらんす堂
『庭燎(にわび)』は『新撰21』に一緒に入っていた中本真人の第1句集。序文は「山茶花」で師事している三村純也。
「庭燎」という聞きなれない題については、あとがきに「私の専門である宮廷の御神楽からとらせていただいた。庭燎とは、御神楽のときに焚かれる神聖な篝火のことである」とある。
《御神楽の庭燎の太き薪かな》のような堂々たる句もあるが、『新撰21』でおなじみの《なまはげの指の結婚指輪かな》のような、途中できらずすとんと言い落とした俳句の形をとった漫談とでもいうべきユーモラスな句が多い。一巻通して同じように面白い句が多いので抄出には困る。
序文で指摘があるとおり人事句が多いが、情の重くれも、逆に突き放した非情のぎらつきもなく、独特の一定の距離感と気持ちの弾みのみが維持される。
《傀儡のぺたりと倒れすぐ起きる》《傀儡の泣きつ面とも笑顔とも》という傀儡の二句、これがどちらも相反するベクトル(「倒れる」と「起きる」、「泣きつ面」と「笑顔」)をあわせ持つことによって、情/非情の次元を離れた、温みを持ちつつもドライな、滑稽さと無気味さの双方を何とも軽やかに帯びているさまを見てから《落第の生徒が夢に出て来たる》の、可笑しみをさそう非力な怨霊じみた落第生に戻ると、この落第生をはじめとする生きた人間の側が「傀儡」の真似をしているようにも思えてくる。《餅を搗く夫婦ならねど息合うて》の餅を搗く二人、《台風で帰る生徒ら嬉しさう》の生徒ら、《夜廻りを怪しむ犬の吠えにけり》の夜廻りと犬や《礼状の礼状が来てのどけしや》の「礼状」同士の掛け合い等も同様。
中本真人にとって、自分が研究している古典芸能とは、求道性や日本趣味といったものとはいささかの関係もなく、自身を含む生身の人間の暮らしをも、個人の生を超えた歴史的スケールの持続の側から、型と所作による滑稽さへと還元してしまう視座を提供してくれるものなのかもしれない。
台風の中や仕送り取りに行く
バーベキューソースの中の落花かな
朝礼を終へ雪掻を始めけり
神戸市立王子動物園
握られてびちびち震ふ油蝉
草笛の危なげのなき音色かな
箱釣の補充の魚置かれある
登山口よりいきなりの難所かな
どつと来しメールマガジン読み始む
夜桜を見回りの灯のよぎりけり
琉金の平たくなつて掬はるる
教職に就く
遠足を離れて教師煙草吸ふ
路線バスなき日盛の島の道
礎に一歩をかけて墓洗ふ
抑へたる目に涙なし菊人形
食膳に着くなまはげの出刃を置く
受験子のペン先宙に何か書く
蝉の数ほどもなかりし蝉の穴
禁制の女人遠巻き里神楽
払ひたる手の甲に蠅当りけり
毒茸怒鳴られながら捨てにゆく
浅草 三社祭
御旅所にどつかり座り何もせず
足裏の真黒なりける凍死かな
落蝉の事切れし眼の澄みにけり
ばつた跳ねガードレールをかんと打つ
※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。
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