「鷹」2011年2月号から。
花札に泊船揺るる小夜千鳥 小川軽舟
「小夜千鳥」は夜鳴く千鳥。
他に《口にねぢこむホットドッグや年の暮》《小つごもり串の砂肝噛みて抜く》等もある。カツサンドの句が有名なので素材の上では“肉食系”かとも思うが、《鯛焼やすぐに尽きたる田舎町》というのもある。肉かどうかよりもファストフード的な身近さ、手軽さのあるものから沈潜した優美さを引き出すことに興味が向くのかもしれない。《草ちぎり微風読みたる猟師かな》なども殺伐たる猟師ならではの色気。掲句の「花札」もそれと似た役割。
冬芝や軽音楽部みな少女 髙柳克弘
作者名もあってうっかり見逃しかけたが、これ、ブームになったアニメ『けいおん!』を踏まえた句だろうか。
《ぼーつとしてゐる女がブーツ履く間》のうっすらとした乖離感も妙に後を引く。
林檎籠表参道口灯る 細谷ふみを
枯野の雀一斉に翔つわれ何者 榊原伊美
枯菊や時間が吾を置いてゆく 景山而遊
夢いまだあり冬瓜の水晶煮 安東洋子
寒夜覚む壁にカフカの顔写真 永島靖子
永島靖子氏が連載している俳句時評、今回は「電車の中で――俳句の変容」という題。《焼そばのソースが濃くて花火なう 越智友亮》(「傘」1号)を取り上げ、《「花火なう」とは何だろう》と考えた永島氏は「なう」が昨年の新語・流行語賞の一つであることを見つける。永島氏の文は、電車内が窓外の風景を見ず、携帯電話を見ている客ばかりとなった現在のリアルに通じるものとして越智友亮の句に触れる順序になっていて、《新語への寛容の限度を考えざるを得まい》と困惑を示しつつ、その進取の姿勢を否定しない。
《俳句は古い情調への傾倒(フェティシズム?)にとどまるべきでなく、伝統をしかと踏まえた上で、時代の流れの先端に立つべきと考える。その見地からは、メール世代の俳句を冷静に見守り、その行方を見つめるにやぶさかでない》。
昨夜(2011年2月24日)、週刊俳句の創刊200号記念企画としてウラハイのコメント欄を使った西原天気・上田信治対談があって、それを見ながらツイッターで数人と雑談していた私は《要するに週俳が祭か縁日なのか》とツイートしたのだったが、越智句の「なう」は、そうした緩いめでたさと繋がりの感覚をそのまま句に持ち込むことに寄与している。というよりもそれがこの句の主題なのだ。「花火」「焼そば」といった緩くめでたい祝祭感を呼び覚ます題材が選ばれているのは偶然ではない。花火を見ても焼そばを食べてもそれを即座にツイートで友人知人たちと共有できる祝祭感と同時性を、力の抜けた姿のまま句に定着させているのが「なう」なのだ。
新語の使用をも現代のリアルとして理解に務めようとする永島氏の姿勢は真っ当で好ましいが、にもかかわらずその大上段に構えた検証の姿勢と越智句の緩いめでたさの間には何ともいえない齟齬感が漂う。そしてこの齟齬感が、俳句の現在の一局面を象徴しているようでもある。
越智句自体は流行語とともに流れ去ってしまう可能性もあるが、それは作者も承知の上だろう。しかしこの句は流行語を取り入れること自体や、花火大会の写生が眼目なのではなく、時代とテクノロジーの変化による生活感覚の変容を、緩さは緩さのままに体験的に詠み込んだことが手柄なので、そこに日が当たれば、逆に21世紀初頭の暮らしの変化を内面(または内面の希薄化・拡散)から記録したこの句によってのみ、流行語「なう」が記憶されるといったことにもなるのかもしれない。
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