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「ぶるうまりん」16号から。
普川洋、田島健一、山田千里の自選50句と大久保春乃の自選50種が掲載されている。
普川洋は柳俳同時進行で「川柳7割、俳句3割ほど」という口語俳句誌「主流」同人。
七七の幻肢がハンモックより垂れて 普川洋
水が澄む公案一つずつ鈍器
天高し無数の瓶がこすれあう
どんぐりのまるい眠気が伝わってくる
簡単に夕焼け病とあるカルテ
田島健一は「炎環」同人。『超新撰21』にも入集している。
鵜飼いの鵜ビジネスマンの美のごとし 田島健一
避暑地雨見れば見るほど地球の石
匙とメロン部屋に子供たちがいない
晴天経済穴の数だけ穴に蛇
人に見られるまでシンメトリーの桃
山田千里は略歴等の記載なし。
濃厚なポタージュにスイミング 山田千里
大久保春乃は歌集『いちばん大きな甕をください』『草身』を持ち、短歌結社「熾」所属。
それは美しい勘違い潮だまりに波紋が波紋よびてくらます 大久保春乃
以下、その他の掲載句から。
土用波と一緒に入る試着室 須藤徹
口広の漂流瓶や雲の峰 二上貴夫
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「新歳時記通信」は、驚くべき粘着力で季語の再検証を進める前田霧人氏の個人誌。
今回の第4号ではことに「三十分と三百年」に瞠目した。
《調べれば三十分で分かる季題の誤謬が、十七世紀末より現在に至るまで、三百年以上に渡って受け継がれているという嘘のような本当の話がある。》
『角川俳句大歳時記 夏』に「夏」の傍題として記載されている「蒸炒(じょうそう)」が諸橋轍次の『大漢和辞典』には載っていないというのだ。
『大漢和』では「蒸炒(じょうそう)」の代わりに「蒸炊(じょうすい)」が載っている。
途中を端折ると、前田氏は原典である韓愈の詩を求めて『全唐詩』にさかのぼり、「蒸炒(じょうそう)」は「蒸炊(じょうすい)」の訛伝と突き止めるのである。
なお「新歳時記通信」は全文がインターネット上で公開されている。
投稿情報: 13:15 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
「らん」第52号の特集は「金原まさ子句集『遊戯の家』を読む」。
鳴戸奈菜、嵯峨根鈴子両氏とともに私も鑑賞を書かせていただいている。
金原さんとは手紙のやり取りが何度かあったが、小説執筆の夢も抱いているという。百歳での小説家デビューとなるわけでもし実現したら壮挙である。
なお、金原まさ子さんは「らん」では「金子彩」の名で活動、華麗な加虐性に富んだモダンな作品を発表し続けている。
冬月や金粉法にて彫る故郷 五十嵐進
草迷宮のうえにひろがる虚無と雲 伊東聖子
雪湯宿シーレの裸婦が紛れをり もてきまり
てんくうにゆりをまぜらんだいせいうん 丑丸敬史
別々の夢見て貝柱と貝は 金子彩
弟は美男子たりし十三夜 楠見恵子
山眠る砂場の山も眠りたり 下田静子
冬の木に赤いマフラー巻かれあり 鳴戸奈菜
こつぜんと包丁消えし木の葉髪 結城 万
句集『遊戯の家』金原まさ子
投稿情報: 15:37 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
高柳克弘氏からのお誘いで一昨日の日曜日、鷹の新人会吟行というものにゲスト参加してきた。
場所は原宿の明治神宮。
午後1時集合で、参加者は13名。
小川軽舟(主宰)
大西 朋
葛城真史
兼城 賢
加納洋子
高柳克弘
夕雨音瑞華(「越智瑞華」から改名。以上7名「鷹」)
市川未翔
江渡華子
小川楓子
関 悦史
野口る理
山口優夢(以上6名ゲスト)
好天に恵まれて、私は花粉症全開となった。電車が都内に近づくにつれて水洟が止まらなくなってきたのである。ほぼ丸一日ひたすら鼻をかみ続けることになった。
明治神宮の入口付近はよくわからぬコスプレ集団のようなものが屯していて、針金の人形が倒れもせずに勝手にひょこひょこ踊っている、妖術とも実演販売ともつかない変なものも見た。高柳氏としばし感心して眺めていたが結局何だったのかわからず、こういうものは目を引くが句にはなりにくい。
いわゆる吟行への参加というのは、私は今回が初めてである。多分あまり向いていない。
さらに鷹では去年、鑑賞欄を半年間受け持たせてもらっていた。型重視の湘子が鍛えた集団に、先に評文を偉そうに書いていて、それから実作を見せなければならないわけで、こんな敷居の高い吟行デビューもちょっとないのではないか。などという話を参道歩きつつ軽舟氏としていたら、飯島晴子も吟行では取り立てて見所のない普通の句を出していたという。吟行自体は材料の仕入れで、制作は後日の別な作業といった形になっていたらしい。
明治神宮は木の種類がよくわからないまま参道を抜け、一応手水を使い、書初の張り巡らされた塀、白無垢の花嫁が一際目を引く神前結婚の記念撮影を見て賽銭箱の前へ到着。る理ちゃん、楓子さん、ここで警備員に不審がられつつ手帖を広げて長時間うろうろ。
ばらけていた皆、再びまとまって林の中を抜け、池を見る。
鴛鴦が何羽か憩っていたが、オス同士が喧嘩を始めた。羽を広げ、水面に立ち上がって威嚇し、走る回る。かなりしつこく激しい。鴛鴦の印象が変わった。
枯芝のなだらかな斜面に移ったあたりで鷹グループと離れてしまい、数人で座り込んで、優夢君が受賞祝のカラオケ大会で「あの素晴らしい愛をもう一度」を披露した話など聞く。普通にうまく歌ったつもりが、反応は「いやあ、優夢君偉い。わざと下手に歌ったでしょう」。
る理ちゃんは来る道々、カマキリの卵を潰そうとしたり、薄氷に枝を抛って乗せて喜んだり、松の根方から無闇に広がってアールヌーボーじみてきた宿り木(?)を「かっこいい」と言ったり、その辺の枯芝をかき集めて山にし、焚火をしたがったりと色々した。焚火は無論とめた。
竹下通りも吟行する予定だったが全員はぐれずに通行するのが不可能な人込み。表参道を通って、貸会議室に先に入ってしまい、さっきから腹を空かせてクレープ屋に行くと決めていた優夢君等と数人まとまって改めて竹下通りをうろうろしたが探すと店が意外とない。そのうち優夢君が急に走り出して姿を消したかと思うと、ずいぶん先に見えてきたクレープ屋から脇道へと伸び込んだ行列の最後尾にあっという間に並んでいて、食い物を探す際の水際立った手際と行動力に皆あきれた。
句会は軽舟氏の淡々たる短いコメントが句の弱いところ、不足なところを的確について、厖大な選句を日々こなしている底力が感じられた。
皆の投句は清記用紙、選句用紙とも終了と同時に捨てられたようなのでほとんど覚えていないが、全体に、現物を見てきていながら、あるいはそれゆえに却って通念に終始する句が多かった印象。季語での飛躍も生みにくい。
日が暮れて、「八丈島料理」の店で飲み会。
明日葉の天ぷらというのが出た。大西さんが畑で作っていたことがあったそうだが、恐ろしいほどに繁茂し、カラフルなつるつるの芋虫が大発生したりしてやめてしまったという(帰ってから検索してみたらキアゲハの幼虫というものらしい)。
ここでも突如句会が始まった。
お題「明日葉(季語)」「優」「夢」の3句出しで5句選である。
5センチくらいある巨大アサリの酒蒸しがあったので、「夢に出る大浅蜊かな師の如く」というのを出したら数点入ったが、採ってくれた軽舟氏曰く、「大きな貝というのはうまく使うと面白いけど、大浅蜊か大蛤か、残すときは冷静に考えないと。今日のこの大浅蜊を見ていないと、せいぜい味噌汁に入っているちょっと大き目の浅蜊くらいに取られてしまうかもしれない」。吟行句であれ即吟であれ、基準を緩くするということがなく、句集収録句に対するのと同じ目で評価されているのだ。
飲み食いの間だけは収まっていた花粉症の鼻水が、妙なことに句を作り始めたらまたとめどなく出てきた。「俳句アレルギー」ということにされた。何なのだろうか。
音楽の話も出たが、高柳氏の趣味がちょっと意外で、好きな作曲家として出てきた名前がバルトークとペンデレツキ。シェーンベルクなどはさほどでもないというので、ロシア東欧系の近現代不協和音というのがポイントらしい。
夜10時散会。小雨になっていた。
原宿駅へ戻る歩道橋を、不意に江渡華子嬢が全速力で駆け上がり駆け抜けた。歩道橋の高さですら耐えられない高所恐怖症ということだった。
投稿情報: 13:23 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
角川の『2011年版俳句年鑑』でも「【今年の評論】俳句想望と昭和想望…高山れおな」に取り上げられていて、気になっている人も少なからずいるのではないかと思われる勝原士郎氏の水際立った時評集『拾う木の実は――同時代俳句不審紙』(2009年)だが、北宋社という連絡の取りにくい出版社から出たこともあって、刊行当初から入手が少々難しかった。
著者の勝原氏本人とお話する機会があったので、入手難の現状をお知らせし(勝原氏はネットを見ない)、読むべき人の手にあまり行き渡っていないのではないかと言ったところ、勝原氏から、自宅にかなり残っているので然るべき相手に謹呈したい、送るべき人に心当たりがあれば紹介してほしいとの申し出を受けた。
私の思い至らない先も多々あることだろうし、知人であっても誰がどの本を持っていないかは一々訊かなければわからないので、ここで進呈希望者を募集する。
残部数がどれだけあるのか、正確なところがわからないので、全員の希望に沿うことが出来るかはわかりませんが、ぜひ読みたいという方は私宛にメール([email protected])で送付先住所をご連絡ください。先着順一覧表にして勝原氏に取次ぎます(受付〆切:1月31日(日))。
なお『拾う木の実は――同時代俳句不審紙』の内容については豈weeklyを参照。
投稿情報: 23:22 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年
マルコボ.コム
杉山久子さんについては、昨年末の超新撰21竟宴のときに壇上にお呼びしようと思いつつ欠席とのことで果たせなかったのだが、そのとき参考にするために句集『猫の句も借りたい』を探していたら岡田一美さん(去年の第3回芝不器男俳句新人賞の城戸朱理奨励賞受賞者)が貸してくれた。
そういうわけで未だに私の手元にあるのだが、いい加減お返ししようと思うので、時期外れながらここから句を抄出する。
『超新撰21』の巻末座談会を見ると杉山氏、既に句集が3冊あってそれぞれ作風、編集が違うという多力な作家らしい。結社で育ったオーソドックスな作風の人という漠然とした印象しか私は持っていなかったので、あの巻末座談会でかなり杉山久子像が変わった。
その中でこの第2句集『猫の句も借りたい』は猫の句ばかりを集めて1冊にし、針金製の猫型オブジェの写真と合わせた特殊な作りのものなので、仮にこれしか見ていなかった場合、作者像がずいぶん偏ったものになりそうでもある。俳句を始める前の私が書店でこの本を見たら、手に取りもしないで通り過ぎてしまったのではないか。オブジェ制作・撮影はキム・チャンヒ。
あとがきによると句集刊行の前年、19年間飼っていた愛猫が大往生を遂げたという。俳句を始めたのと猫を飼い始めたのがほぼ同時期なことから自然と猫の句が溜まっていったようだ。
雛の間に入りゆく猫の尾のながき
水温む保健室より猫の声
恋猫に日あたる聖書研究会
空蝉を噛む猫の眼のかがやきて
秋風にふくらみきつて白き猫
永き日や犬の視線の先に猫
新入りの猫のおそるる竹婦人
猫去りし膝月光に照らさるる
恋の猫餅のごとくによこたはり
収録108句全部猫の句であって、一気に読むと「猫」が何だかわからなくなってくる。
猫の場合、一見情をまじえずに姿や動作を写生しているように見える句でも、その写生の欲望の裏に猛然たる猫可愛さの念が透けることが多い。中で《空蝉を噛む猫の眼のかがやきて》は人とは別の生物としてのネコの生気が捉えられて鮮烈だが、では他の句はどうかというと、あえて非情に突き放して書くでもなく、自分のふくよかさの中に含み込んで、そのスケールによって溺愛のべたつきを適度に乾かしているといった風情。
ところで《恋猫にさづけやる名の松竹梅》という句から、思わず『犬神家の一族』を思い出してしまったのは私だけか。遺産相続をめぐって争う三姉妹の名前が松子、竹子、梅子だった。目出度いといえば目出度い、いい加減といえばいい加減な命名で、こういうのは横溝正史の世界に出てくるとブラックユーモアじみた効果が上がる。
投稿情報: 05:05 | 個別ページ | コメント (4) | トラックバック (0)
短歌同人誌をもう一つ。
「Esコア」第20号(2010年12月)は、以前一緒に連詩に参加したことのある江田浩司氏から、超新撰21竟宴会場でもらった。噂では誌名(「コア」の部分)が毎号変わっているらしい。
評論が多く、かなりボリュームがある。
ここからは理由はいらず磨かれた敷石をひとり踏んでゆくのみ 松野志保
「ムーミン谷に住みたいの!」という娘(こ)に育ち
ほんとうに白い時計が似合う 村松直子
原爆ドーム撮ればかならず写りこんだ市民球場の照明灯よ 谷村はるか
パソコンが記憶奪われ死ぬ様をただ青ざめてわれは見しのみ 桜井健司
寺町の小雨の路地に車窓より幼女を見たり いつの世の妻 大津仁昭
肉体が植物と成りその繊維漉かれて青き性欲残す
蒼穹につづく墓原ゆく雲や白鑞の影うごくたまゆら 江田浩司
聞いてわたしのからだをめぐる瀬の音を 今朝鳥かごで小鳥が死んだ 加藤英彦
投稿情報: 20:08 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
特に顔見知りの人などがいるわけでもなく、なぜ私のところにまで送ってくれたのかよくわからないのだが歌誌の「町」4号(2010年12月)から抜粋する。
案内状によると「町」は昨年春創刊、早稲田短歌会と京大短歌の有志6人による同人誌とのこと。
参加者の年齢層は編集発行人を務める最年長の土岐友浩が1982年生まれで、最年少は服部真里子が1987年生まれ。全員20代ということになる。
瀬戸夏子の短歌としては珍しい意味不明寸前のイメージの飛躍や、望月裕二郎の「( )」を多用した修辞による悪意の表出が面白い。
祈ること祈らないことしばらくのあいだ真冬の雲を見ている 土岐友浩
牛乳を電子レンジであたためてこれからもつきあってください
海や朝にはあいさつがなく わたしたちには殺人ばかりがあると サンタクロース 瀬戸夏子
画鋲がもっとも苦く てっぺんにあるところ 実朝が バターを塗ったりするまま
太陽はコップから昇り 太陽に指紋がのこる 姻戚がソーダに満ちてくる
世の果ての駐車場から見ておりぬバベルのちんこちょんぎられしを 吉岡太朗
笑ってと言われて困っているような顔の車だ 椎の木の下 服部真里子
地方都市ひとつを焼きつくすほどのカンナを買って帰り来る姉
われわれわれは(なんにんいるんだ)頭よく生きたいのだがふくらんじゃった 望月裕二郎
そのほうがおもしろいのか道草はうまいか絵でいてつらくないのか
穴があれば入りたいというその口は(おことばですが)穴じゃないのか
夕食と生ごみに分離する前の野菜艶やかに売られておりぬ 平岡直子
どのくらい遠ざかったら指先で潰せるサイズになるのかきみは
投稿情報: 18:57 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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