冨岡出版
1999年
この前「俳句樹」で紹介した句集『ユキノチクモリ』(霧工房・2009年)の著者、増田まさみ氏がその前の第3句集『冬の楽奏』を送ってくださった。
少年をさかしまに抱く寒昴
神を見るまで大根を辱かしめる
もういいよ沼の日暮れは数えきれぬ
渚にて殻が殻抱く貝の日暮れ
少年にカビ降る首夏の光堂
かたつむり腐乱のひかり担ぎゆく
死んでこそこの鶏(レグホン)は繁るのです
薄い句集なのでうっかりすると次から次へ全部引いてしまいかねない。序盤を少し見ただけでも「さかしまに」「辱かしめる」「カビ」「腐乱」「死」などマイナスの詩性を帯びた語を含む句が、情念や空疎な審美性に溺れるでもなく、かといって体の重みがかかっていないわけでもなく、諦観にも似た謎めいた距離を持ってかたちづくられているのがわかる。
あるまじき蟹の睫毛や冬の椅子
飢えのめす蛭百万の冬たりき
この辺りの句にはおかしみとシュールな凄みが加わる。
「あるまじき蟹の睫毛」の秀逸なフレーズにつくのが、どこからどういう連想で来たものとも知れない「冬の椅子」の固さ、冷たさと体に添った親密さの感覚。ここにも謎めいた距離感が見てとれて、この距離感が作者のモチーフに対する基本的なスタンスなのかとも思う。
中盤にある「兵庫県南部地震八句」の前書きを持つ連作が圧巻。いわゆる阪神・淡路大震災である。
凍土に溺れる家の骨肉ぞ
淡雪の後夜目に浮くなま卵
屍都を繙くおとといの河骨と
廃都の奥にぞ打ち込みたる向日葵
干し竿や凹部の秋の行方しれず
居ぬ人の器の縁をつたう秋
血を流す落書のあり冬の塔
電球をくわえ冬川流れけり
「凍土に溺れる家」の「骨肉」「血を流す落書」といった一度に流動物と化した大地や建築が見せる惨死体の様相、「夜目に浮くなま卵」「居ぬ人の器の縁」のショック後の離人感覚。表象の限界近い経験を句に込めようとするときに現れるアレゴリカルな表現の手応えに息を呑む。《屍都を繙くおとといの河骨と》。おとといは平穏のうちにあった都市が、今は解読を要する瓦礫と化している。河骨を見た/河骨の居る「おととい」は絶対の懸隔の彼方になってしまったのだ。
以下はそれ以降の句から。
このわたや遠方に散る姥桜
人体や夢のほかには滝の壺
落蝉を百歳(ももとせ)見捨て一度哭く
朝顔や絞めあう首のあべこべに
鏡中におさない砂丘踏まれけり
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