芸林書房
2002年
著者は元通産官僚。職務のため世界各国に赴き、その見聞を句にした。第一句集のタイトルが『官僚』という。こういう社会的立場の作者は句と生活を截然と分けるのが普通で、じかに句材にしているのが珍しい。見所は素材であり、ことに海外詠である。
無花果をゆつくりと割る耳たぶよ
月光にラムネのあわを積み上げよ
ランドセル真赤や冬の日本海
法皇を天より打てりロシアの雪
キリスト教もカトリックとプロテスタントしかないわけではなく、東欧以東は正教会系が主、ロシアはロシア正教会となる。西の合理・開明・人間中心主義を、東の底知れぬ奥深さを持つ闇と自然が出迎える。日本からは窺いにくいキリスト教圏同士での相克と混濁を見せ、文明批評性を孕んだ句。
凩や韓廃帝のキャデラック
酒で磨く康煕の壺に初景色
息白く化石の象の進化の前
巨大なもの、豪奢なもの、歴史を背負ったものを、浸透も観入もせず目の前に置かれたという位置関係のままざっくりと素朴に詠む。
金子兜太の解説によると、作者は高柳重信の50句競作に誘われて作品を見せた際、「お前は詠うものを持っていない」と酷評されたという。作者の『官僚』あとがきには、「自分を愛してくれた」「幽明境を異にする人々一体感ともいうべきもの」が自分の俳句であるとも記されているらしい。重信のような敗残意識、自意識は無論なく、目に映ったままに世界を再現する。他界への越境がそもそも問題にならない(一体なのだから)からだが、この安定はイメージの明確さと外面止まりに終わる危険を併せ持つ両刃の剣でもある。
素材との関係ではなく、何を見るかという素材の選択自体がアルファにしてオメガといった造り方であり、このあり方が『官僚』の大部分を占める海外詠に威力を振るう。
ミャンマー
鎗上げるごと夕焼けのパゴダの金
涼風に押されて祈る楽しさよ
忽然と仏陀の影の冷気の中
タイ・ラオス
泥の川路肩に迫り午睡の街
スコールに露店の傘の色消ゆる
椰子の実のころがり続く石畳
フィリッピン
溝のなきスペアタイヤよ鳥渡る
インドネシア
湧水に老婆洗へり無き足を
鶏が住み人住む遺跡バリの夏
ブルネイ
ジャングルの奥まで草を刈り進む
カナダ
万緑の巨木を倒すインディアン
アジアを駈ける
秋深し壁の中にも道続く
夜濯ぎや白煙世界鳥も無し
流木の蛇泳ぐごとメコン行く
ラオス暮れタイ夕焼くるメコンかな
ここから『官僚』以後の作品となり、作者が移り住んだ愛媛の風土、また近代日本を築いた明治人たちの遺功の前に佇む句が増える。
暮れなづむ森の奥より蛍の目
三千の鬼籍を秋の風守る
風光る住友家法廃嫡あり
早春の句座に端座の幻ぞ
貫太郎ミミズを踏んでしまひけり
これは東日本在住の人間にはほとんどわからぬ句ではないか。
「かんたろう」は四国・九州を中心に分布するシーボルトミミズのことである。フトミミズ科フトミミズ属に属する大型のミミズで、全身真っ青、大きなものは太さ2センチ近く、体長40センチにも及ぶという怪物である。通常のミミズを想像してはならない。
日脚伸ぶごと左遷との報至る
中華序曲
桃花江豊かな女体梅雨に濡れ
毛の墓虚ろの雨や桃の花
この句集は数年前本人にお会いした際、直接いただいた。
文庫版の薄い選集なので会場で名刺代わりに配るには最適だったようだが、版元の芸林書房が惜しいことにいつの間にか倒産したらしく見かけなくなってしまった。この芸林21世紀文庫、他にも鈴木六林男、佐藤鬼房、眞鍋呉夫、能村登四郎などの句集も出してくれていたのだが。
西村氏は芝不器男俳句新人賞等を立ち上げ、運営している中心人物である。私にとっては俳句上の恩義のある人である。別れ際に、改札の前で「エエ句作れよ!」と大声で励まされた。
西村我尼吾…1952年大阪府生まれ。山口青邨に師事。東大学生俳句会「原生林」編集長。東大ホトトギス会幹事。1990年有馬朗人主宰「天為」創刊参加、同人。1998年句集『官僚』(深夜叢書社)。1999年「松山宣言」起草に参画。共訳監修。2000年「正岡子規国際俳句賞」、2002年「21世紀えひめ俳句賞」、「芝不器男俳句新人賞」の創設に参画。各賞選考委員会参与。
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我尼吾さん、豪快な人ですよね。
いちど、中新田でお目にかかったことがあります。
奥様の対馬さんとは先日、「俳句」の座談会でご一緒しました。
夜、夫婦二人の時も俳句の話ばかりしているそうですよ。
投稿情報: 高山れおな | 2009年2 月 7日 (土) 02:15
高山れおなさま
コメントありがとうございます。
正岡子規国際俳句賞等、愛媛の俳句関連事業はほとんど我尼吾さんの熱意と志で動いているのではないかといった印象でした。
また受賞者にイヴ・ボヌフォア、ゲーリー・スナイダー、金子兜太と並べるという視野の広さと公正さも貴重と思います。
対馬さんとは会場の移動中(けっこう歩いたので)にちょっとだけお話しましたが、謙虚で未知のものに対しても開かれた方という印象を受けました。
投稿情報: 関悦史 | 2009年2 月 8日 (日) 07:50