弘栄堂書店
1991年
江里昭彦氏は最近ウェブマガジン「―俳句空間―豈weekly」にもお書きになるようになって久々に論客ぶりの一端を見せ、20歳近く年下の私などは幻の俳人の生存が確認されたというに近い感慨を持った。
『ロマンチック・ラブ・イデオロギー』は『ラディカル・マザー・コンプレックス』に続く第2句集で、この「世紀末」の句集が未だに最新句集であるらしい(コメントで知らされたがこの後2002年7月に砂子屋書房から『クローン羊のしずかな瞳』が出ているとのことだった)。バブルが弾ける少し前の頃の刊行だ。
林あまり『最後から二番目のキッス』から採られた「花びらを持つ者どうしの性愛も春のさびしき華やぎのなか」一首を巻頭のエピグラムに据え、性愛と死と政治的時代相をおよそリアリズムと無縁の言葉に組織だてている。
各章の章題がまた凝っていて、凝りすぎの故に目次の前に「詩ではありません/目次です」とわざわざ一頁を使って断り書きがなされている(引用句の前にある「ジャニス・ジョプリンの…」以下が全部、句に対する前書きではなく各章の章題である)。
ジャニス・ジョプリンの「サマー・タイム」を聴きながら
身の穴をゆるめて月のひかり浴び
船は沈みぬ今日はふしだら宥される
〈一九六八〉
富士はいつも富士削りとる風のなか
睡り待つ頭上に星の錘かな
日本人異聞
沖に湧く革命歌 誰が腹話術
メメント・モリ
桃で掌をしたたか濡らす幸彦忌
「おおぞらに孔雀錆びつく昭彦忌」とまず自分を死なせてしまった句を皮切りに、「恒行忌薄がなぶる能舞台」(大井恒行)、「ちづこ忌に購(か)う七色の薔薇の喉」(上野ちづこ=社会学者上野千鶴子、かつて江里昭彦の俳句仲間だった)と存命中の友人知己に片端から生前葬を振舞ってしまった章。攝津幸彦だけは既に本当に亡くなった。
生前にその忌日の句を作るという方法、案外批評として一定の有効性を持つものなのではないか。死んだ途端に省みられなく(であろう)俳人は対象に出来ないからである。
ああ、あなたが住む街にふりそそぐ光というはるかな液体
飲食(おんじき)やしずかに腸(わた)の彩かわる
楽器
腰砕けしジョーカーなれば捨つるなり
刃先が自分へも向いた、諸刃の剣のような句か。
哄笑をもってオールマイティーの位につくジョーカーも、腰砕けになってしまっては無様なばかり。地上を離れ宙に浮いて見せる作りの句は、日常レベルの感慨や私情のべたつきを濾過しつくさなければならない。
聖カラヴァッジョ
情交の翼うわずる天使たち
自瀆後のわが夢なべて外典聖書(アポクリファ)
チープ・イミテイション・ゴールド
聖家族乗せ観覧車錆びにけり
夕焼や空のどこかに挽肉機
黄泉にて記憶の眼球(めだま)取り替うる尼僧たち
小さき深度(デプス)
児があらばぽぽと飲まさんうしのちち
望郷の章。「片脚は他郷にかかる寒の虹」といった句もある。
去年、エルサルヴァドルで
直立の傘が監(み)てゐるひと殺し
グァテマラの人骨 霧の急移動
轢死あり焼死ある日の静物(スティル・ライフ)
中天(なかぞら)の巨人懸垂もう止めよ
「中天」の句、個別には知っていたのだが、句集を通読するまで中米の独裁政権による過酷な人権侵害を扱った章に編入されているとは知らなかった。句の色彩が相当に変わる。
コルタサルが死んだ年に
正体不明者(デスコノシドス)と行方不明者(デサパレシドス)の東京や
やんわりと月が見てゐる歯の治療
悪霊を背負う独りの花見かな
コルタサルはアルゼンチンの大作家。悪夢的強迫的恐怖を完璧な短篇に結晶させる一方、長篇『石蹴り遊び』では普通に読み通すのと別に、作者の指定に従って各章を行きつ戻りつして読むと別なテクストになるという、実験的にしてしかも堂々たる古典名作の風格を備えた小説を書いた。「やんわりと~」の句もコルタサルという光源を得るとうっすらと恐怖を帯びる。
この句集に収められた作品が書かれていたであろう80年代にはラテンアメリカ文学のブームもあり、書店には普通にコルタサルの新刊が配本されていた。大不況と市場原理主義を経た現在から見ると、生身の作者だけでなく、作品までもがこの世から吹き払われたような気がしないでもない。
なお「正体不明者~」も当時と今とではかなり見え方が変わってしまった句であろう。80年代は現代思想ブームの時期でもあり、記号論を援用した都市論・東京論の類も百花斉放の様を見せていた。当時都市とは魅惑の対象であったのだ。
泣かないのか? 泣かないのか〈一九八四年〉のために?
男ふたり海市見てきて湯にひたる
ジョージ・オーウェルの未来小説『1984年』もその年の到来に合わせて映画化されていたのだった。『1984年』の世界では個人が自分の考えをノートに記録することは禁じられており、主人公は恋人ともども逮捕され、拷問・洗脳によって党への愛情を植えつけられた末処刑される。
当時は全体主義的ディストピアの見本・ソ連がまだ健在だった。
愛国より愛液
抱きあってふたりがながすみず違う
六道夢吹雪
禽獣の餌(え)となる婦(おんな)涼みをり
生け捕りの少年を飼う金屏風
第八の欠落を含む十の哀歌
みずうみにみずこみどりごみどりの瞳(め)
末期のメニュー
首吊りにみとれてガムを踏んじゃった
共食いを星がはじめる日本海
首出して夫婦雪夜を眠りをり
こんなにまばゆいのに、わたしは夏を去らねばならぬ
つかのまのピエタなりけり夏の雲
抱いて秋風、脱がせて深雪
離宮の砂に鼻血をこぼしくくと笑う
夢十態 あるいは夢魔のカードのまじったババぬき遊び
腹這いて虹を咥える沙弥もあり
どろなわ世紀末
月光はあまねし家庭内離婚
過ぎゆく時への献歌
盛装し下着はつけず観る桜
芙蓉家族
頭(ず)に昆虫(むし)が棲むがに父の遠目癖
ヴィクター・ラズロの「ロング・ディスタンス」を聴きながら
抱擁の全重量のつちふまず
全体を通読してみて思いのほか時代の古びは感じなかったが、現在とは切れた、俳句表現の進化の中でどこに位置するのかよくわからなくなったエアポケット的な生物の化石のような気配もある。いずれにせよ句を作る者としては踏まえておかなければならない或る達成であろう。でないと知らずに似たことをやりかねない。
江里昭彦…1950年山口県生まれ。1970年京大俳句会入会。80年「京大俳句」編集長(83年の終刊まで)。その後同人誌「日曜日」「未定」等に参加。
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関悦史様
こんばんわ。今しがた、豈weekly第27号の下書き作業を終えました。ご寄稿有難うございました。私はたまたま「鬣TATEGAMI」と「夢座」の寄贈を受けているので、江里さんの論・作はずっと読めているのですが、そうでないとなるほど江里さんは生き死にすらわからないということになるのですね。
ひとつ記述にお間違いがあります。江里さんの最新句集は、2002年7月に砂子屋書房から出た『クローン羊のしずかな瞳』です。
大虹をつきぬける鳥みな真顔
候鳥や天(そら)の述語としてすすむ
マネキンの新郎新婦に月がでた
キャプションに廃帝とある巨漢(おおおとこ)
満洲(マンチユリア)! 星が密猟されるという
なんていう句が載っています。
投稿情報: 高山れおな | 2009年2 月15日 (日) 01:38
高山れおなさま
ご指摘ありがとうございます。ウェブ上に間違いが上がっているとはた迷惑なので、本文に注記を追加しておきました。
そうなのですよ。最近特に、雑誌・同人誌的な情報・素養が自分は相当に欠落しているなと感じることが多いです。
「マネキン」と「満洲(マンチユリア)!」の句は何故か知っていますね。
どこで見たのだったろう。
投稿情報: 関悦史 | 2009年2 月15日 (日) 01:54