邑書林
2000年
この前年賀状を書くときに新年詠を作る必要に迫られて何となく思い出したのが、この本に収められている
杵屋来て臼屋へ御慶くれゐたり
の一句だった。
餅つきの動作を連想しないわけにはいかない組み合わせに「くれる」という言葉遣いで勢いがあるが、「杵屋」「臼屋」などという、ここまで細分化された職業が果たしてあるものかという違和から書割のような妙な虚構性が漂いはじめ、特別名句と思ったわけではないが印象に残る不思議な句である。
編集者として「セレクション俳人」シリーズその他多くの俳書を手がけた著者の、東京から長野県佐久市へ転居後の333句を収める。あとがきによると実質的な処女句集だという(『火を高く―島田牙城第一句集』というのが別にあるらしいのが、その辺どういう関係なのかはよくわからない)。
熊の剥製ならんで九階の春風
春惜しみつつ乳(ち)の型に雲雪崩る
知事室のその奥知らず古暦
春は筍とりあへず米と炊く
公園は黙の集體鳥交る
天空派大地派入りみだれたる花下
馬乗りの兄が大好きさくらんぼ
かまぼこの板のやうなる凪にをり
神のまぐはひ水母にまぎれ覗くかな
鴨の尻十も揃へば妻戀ほし
栗鼠の尾の平べつたいぞ月に雲
はんぺんへ蛸の朱移りたるおでん
木星へ白き枯木となりてをり
じやがいものあとかたもなきおでん鍋
叩かれて針抜かぬ蚊のぶらさがる
ほらだからもうばかりなり瀧の母
秋の夜の何被りてもおばけかな
無きはずの財布の紙幣花祭
公園の繪タイル歩め金龜子
炎帝一下著者痛恨の自歌自註
ふたたびの月戀ひ人か妻にして
「妻」、「子」、「酒」、「おでん」、小動物等一見身近そうな素材が並ぶが、あとがきでフィクションと明言されている。素材との馴れ合いの気配が全体に希薄なので、そうなのだろうと思う。
兄弟にふにやとへにやあり桃畑
大和なるひとつ御靈のこごえけり
子の尻の肉だらけなる柳かな
子の母のその母おはす朧かな
烏瓜辭書のか行の手垢とは
酒飲んで神とも櫻ともつかず
山國のむめもろともにさくらかな
全体に師・爽波ゆずりのニヒリズムに通じるような写生、そして諧謔と、二つの要素が目に付くが、この写生、感覚的再現や事物の次元を超えた存在へ迫ることが目的ではなく、日常から句を剥離させ、虚構の天地へとわずかながら決定的な隙間を切りひらくために用いられているように見える。
巻頭に見開き2ページに、「噫、波多野爽波」と前書きのついた師への追悼6句が置かれている。
息深く拾月拾八日眞晝
掛稲に糊の利きたる服を著て
は爽波の「掛稲のすぐそこにある湯呑かな」を踏まえた句か。
島田牙城…1957年京都市生まれ。波多野爽波に師事。「青」編集長、「炎環」等を経て今井聖主宰「街」、椹木啓子発行・島田刀根夫編集「洛」、夏石番矢代表「吟遊」3誌の同人。
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