花神社
2001年
自然科学的な明快な対象把握で虚の世界を窺う作風で知られる著者の、阪神大震災以後、奈良県生駒市に移ってからの作を収めた第8句集。
タイトル『坐忘』は「冬山の姿定まり坐忘かな」の句から。
造語のつもりで苦心してこの語を得たが、じつは『荘子』に既にあったという。《「顔回曰わく、枝体を堕(こぼ)ち聡明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去りて、大通に同ず、此れを坐忘と謂うと。」ああ、ぼくは聡明を黜け知を去ったのではなく、ただ無知であったに過ぎなかったことがわかった。》
連翹やかがむと次元一つ消ゆ
蝶の羽開きて閉じて信号す
分水嶺都会のほうへ蝶なびく
花鳥的・包容的自然の方へはなびかない著者の自画像とも見える。
ぼうふらが磁針のように北を指す
桃据わる世界平和のごと据わる
時間とは水にも火にも透き通る
古墳群入道雲を真上にす
下半身もて炎昼を歩くのみ
即物性というよりは自分の身体に対する離人感からリアリティにつなげた句。「ストーブの冷めゆくうつつ大頭」というのもある。「直立の墓すつぽりと頭蓋の中」という句も出てくるが身体=闇=宇宙的実存へと繋がる河原枇杷男とは、同じ内界と死を詠んでも扱いがかなり違い、畏怖や恐怖の念が漂うことはない。
天体の欠けらに過ぎず今朝の飯
亡き人の句集の背文字紅葉せり
二上山しだいに大き春浅き
わらびならび四百字詰原稿紙
休まずに種無し葡萄食べ終る
この辺の身体性を介した無意味さは阿部青鞋にも似通う。
土石流来るか本箱智に充てり
萬緑の奥の気圧を手に受ける
蜩は先入観をもつている
ニュートンと芭蕉に同じ天の川
ニュートン一六四二年、芭蕉一六四四年生まれ
男女ゆく空気抵抗分かち合い
杜若対称軸を正しうす
すぐ食えと生まもの届く日雷
原爆忌ぼくは他のこと思えりき
無意識には否定形はない。見知らぬ他人に「私はあなたを殺そうとは思っていませんからね」といきなり言われたら、「こいつおれを殺そうとしているのか」とまず思うのが普通である。わざわざ見せ消ちにされた「原爆忌」が、却って意識からの消しがたさを際立たせる。この句の次にはこの作者の特徴、クールな身体性に引きつけた「大脳のあたり照らされ敗戦日」が並ぶ。
新星の生まれる話石蕗明り
立ち枯れの自転車並ぶ都かな
永劫に生くる人ありさくら咲く
句集とは俳句の墓場春の暮
わが骨は七つの色の燕子花
太陽光のスペクトルと同じ色数の花へと、量子的に広がる潜在性を秘めたものとして、己の身体が把握されている。
濁流と清流出合う余寒かな
この句集には「平穏の一年なりしか否と答う」といった普通の生活実感に還元されてしまう句も少なからずあり、必ずしも自然科学を経由した非日常的把握ばかりがなされているわけではない。「濁流」と「清流」は和田悟朗の句業そのもののあり方にも通じ、この句自体も自然詠として何ら抵抗なく読めてしまう。異なる要素の並列のはざまに虚を開こうとする句としては「鳴き声と泣き声とあり枯木村」「阪急とJR競う秋の暮」「抽象と具象のあいだ神戸冷ゆ」「夕顔や大小にあらず多寡にあらず」もあるが穏健で読みやすい分、安全圏からの観察に留まっている趣きもある。それが星新一にも通じるような粘らない読みやすさにも繋がっているので、一長一短あるというべきか。「双眼に菜の花菜の花見たくなし」は普通の自然詠に飲み込まれることへの危機感と違和とも取れる。
行くほどに長き無意識白椿
攝津幸彦の「白椿白痴ひうひう研究せり」の残影が漂う句。『坐忘』の中には「葉桜や男なら皆知つている」「道幅のついに虚となる椿の夜」、攝津幸彦氏死去の前書きを持つ「文芸の不幸にS氏神無月」といった句もあり、時折攝津幸彦や阿部完市に通じるような言語で組み上げた虚無を通じて無意識にいたるような要素があらわれる。ただし詠み方はより穏健。
類型の耐震家屋いわし雲
白い犀秋立つときも貴種として
暖房の熱力学の眠たさよ
眠気のさしてきた中で、室内の暖気の対流を思う。それだけの句としても読めることは読める。
しかし「熱力学」が伊達ではないので、エントロピーの法則を連想せざるを得なくなる。室内にお茶を放置する。この時部屋の外との熱交換はないものとする。お茶は次第に冷め、室温をほんのわずか上げてやがて同温に落ち着く。エネルギーを取り出すことができなくなったこの平衡状態を「熱死」といい、かつて70年代頃には宇宙や人類の滅亡とからめて論じられていた。
この句には別段破滅願望はない。人体は閉鎖系ではなく開放系なので、通常室内に放置しても勝手にどんどん冷えていくということはない。物理的にも心情的にも、たゆたい、うつろいつつも未だ安定が保たれている。
和田悟朗…1923年兵庫県生まれ。「白燕」に参加、のちに「俳句評論」「渦」等の同人を経て現在、「白燕」代表。 大阪大学理学部卒業。神戸大学理学部助教授・奈良女子大学理学部教授を経て現在、奈良女子大学名誉教授。 第16回現代俳句協会賞受賞、他に兵庫県文化賞・大阪文化芸術功労賞等を受賞。
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