本阿弥書店
2000年
岡井省二最後の句集。
著者はあとがきで「諸行無常とする日本文学の閉塞的な負の流れを、私は俳句において大日の開放系思想の場へと転換させた」と揚言し、第9句集『鯨と犀』、第10句集『鯛の鯛』とあわせて「華厳・密教三部作」と位置づけている。
この『大日』に関しては今週頭に「―俳句空間―豈weekly」に拙稿を載せていただいたので、総論的なことはそちらを見ていただくとして、こちらでは内容の深浅とは別に、語釈がつかないことには何を詠んでいるのかもよくわからない句が幾つもあるので、そうしたものを中心に拾いなおしてみる。
玉虫貝に昼月の虚空かな
「玉虫貝」という名の貝がいるわけではない。
国立近代美術館工芸館の工芸用語集から「青貝」の項を引くと《鮑(あわび)の貝殻の玉虫色に輝く部分を選び、薄くし、その破片を大小にふるい分けて、それぞれ意匠にしたがって蒔き、あるいは置く。このうち特に美しく玉虫色に輝く僅かな部分からとった青貝のことを玉虫貝といい、これは蒔かないで、主として置き並べて文様をつくる。》とある。
アワビの貝殻から取れる微量の真珠層と昼の月という、この世離れした素材同士の取り合わせによって現出する虚空を愛でた句。
(写真は右記より転載http://waurusi.sblo.jp/article/10618069.html)
五芒星六芒星と星月夜
「五芒星」は陰陽道では魔よけの呪符として使われ、古代西洋では地水火風の四大元素に霊を加えた5つのエレメントにそれぞれの頂点が対応させられた図像であったという。
一方「六芒星」はイスラエル国旗にも用いられ、ユダヤ教の聖なる図形として知られているが、日本でも魔除けとして用いられることがあり、伊勢神宮周辺の石灯籠にはこれが刻まれ、「籠目紋」と呼ばれているらしい。
いずれにしても強力な聖性と象徴性を帯びた文様で、これらが入り混じって頭上の実際の星空に平然とあらわれるさまは、自然と象徴体系、宇宙と聖性の一体化をずばりと提示し、かすかな戦慄を呼ぶ。
數霊盤(すうれいばん)の霊座(たまくら)は5天の川
数霊盤は古神道で用いられたものらしい。
縦横斜めの和が全て15になる。5を真中としなければ和することができないという一つの思想が埋め込まれており、この真中の5の位置が霊座(たまくら)と呼ばれる。
つまり上五中七はそっくり数霊盤の説明で、数秘術的な観点からこの世の秩序を言い表し、それを宇宙と照応させて肯定の意を示している。
(図版は右記より転載 http://123.mikosi.com/kazutama.html#1)
蛇なれやポタラの穹(そら)の二重虹
17世紀に成立したチベット政府の本拠地ラサに「ポタラ宮」という宮殿があるのだが、この名はもちろん、サンスクリット語の「ポタラカ」(=補陀落。観音菩薩が住むとされる)。
この句の前後、「蛇がまぐはひ真空に虹また虹」「舌出しおどけるアインシュタイン虹の蛇」と虹/蛇の句が並ぶ。
虹蛇というのがそもそも、世界各地で創造と雨を降らせる力があるとして伝承されてきた神獣らしいのだが、「真空」や「アインシュタイン」までが出てくると単なる自然の神格化には留まらず、物理法則と自然科学的知見を超えた彼方までをも「蛇」として受肉させ、性交のメタファーを負わせ、省二的密教空間に捉えこもうとしている。物質とエネルギーの秘密を開示しておどける「アインシュタイン」もここでは菩薩として扱われているようだ。菩薩とは「覚りを求める人/悟りを具えた人」の謂である。
梟は手毬にもたれ寝まりをる
師・加藤楸邨の「ふくろふに真紅の手毬つかれをり」を踏まえた句。
不眠症の強迫的な幻覚とも見える楸邨句に対し、省二句は怪異そのものを安らがせて応えた。手毬をつかれるといった受身の句がそもそも省二には少ないのではないか。世界をつかんで腹に収めようとする能動性の方が目につく気がする。
『大日』のオビの裏側には「岡井省二俳語録より」として《「実即実と投げ出して、それが反転して虚であった」これが俳句表現。私はそう詠む。》とある。
これは単なる句作の心得ではない。受肉・具体の相においてとらえられた世界を、空と色との絶え間ない生成の流れに差し戻して認識し、そこまでの射程を句の中に実現せよとの謂である。
岡井省二…1925年三重県生まれ。内科医。加藤楸邨・森澄雄に師事、「寒雷」「杉」同人。1971年第1回杉賞受賞。1991年「槐」主宰。2001年9月23日没。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。