典雅で逞しい、バロック的美意識に貫かれた句集。薄い本なのに読みでがある。面白い句は引きはじめるときりがない。
句本体とはおよそかけはなれた前書きが全句に付されているのが目を引く。アクロバティックな前書きというだけなら林桂によるより耽美的でスタティックな前例もあるが、ここでの前書きと句の関係は実に多彩。
俳句を欲してゐるのは日本語そのものだらう。
夕空に恋する猫の天守かな
しかし、ほんたうに日本語は俳句を欲してゐるのか? どちらにせよ俺は知らない。
大吉を引いて跨がる臥龍梅
詩論そのものが詩となり、それとの照応で句が別の相貌を見せる。
メタレヴェルを取り込むことは衰弱への早道にもなりかねないが、ここにそうした気配は見られない。
そうかと思うと自分の暮らす町を詠んだシリーズも取り込まれるが、こちらも現実が特に猥雑な活力を呼び込むといったふうではなく、一定のテンションを維持している。一筋縄ではいかない。
西葛西地誌 その六 中国人
客引が立つポイントが駅前に二ヶ所。いろいろ売つてる。春も夏も秋も。
エルドラドひつそりかんと鯰ゐて
「わたしのも酸つぱいのかしら」
日比谷黄昏(こうこん)著莪は火星に咲いてみたい
宇宙・植物・人が遠近法のない世界でエロティックに絡まりあう。このあたりは唐草と人体が渾然とつながりあい一体となる、グロテスク様式の図像の特徴でもある。次の二句もそうしたもの。
青山茂根(もね)の〈バビロンへ行かう風信子(ヒヤシンス)咲いたなら〉に和す。
芽からまつ絢爛の空がバビロンぞ
いつか女も木になる、男も木になる。
手のばせば腋かがやきぬ鳥の恋
木になる女というのは、ギリシア神話のダフネのイメージだろう。ダフネはアポロンに恋され、その手から逃れるために、触れられた瞬間月桂樹へと変身する。
かと思うと再び詩論。
ここに主題はない。主題の影さへもない。
憂しと見し牡丹の奥や鏡の間
しかし、形式はある。といふのも実は幻想にすぎないのだよ。
牡丹剪るやブエノスアイレスに遠く
一見詩論とその具象化とも見えるが、よく考えると前書きが話し言葉であるあたりがあやしい。さまざな文学理論と詩心によって複数化した自分たち同士の応答により、虚の空間を切り開いているとも見える。
×月×日 新大久保で筑紫磐井氏と偶会。
スパゲティ食ひつつ、例によって悪魔のささやきいろいろ。
壁に灼けて手形色紙の霊(ひ)は招く
筑紫さんも登場。
俳句は私小説とはよくいわれるが、そうしたものとは少々毛色が違い、身辺の事実をもとに怪奇小説の世界に踏み込んでいる。身辺の事実も、虚を肉厚なものにするためのダシにすぎないようだ。
前書きがそっくり短歌や俳句のかたちになっているという荒技も多数ある。
〈アキレスが裂くヘクトルの喉笛よ、定型のやはらかき一点〉
湯上りやあはせ鏡の鴫立つ沢
これはまたずいぶんとさまざまな《間》が錯綜した一句。
アキレスとヘクトルはどちらもギリシア神話の英雄。ヘクトルはアキレスの戦友パトロクレスを倒し、その仇として一騎打ちでアキレスに殺される。
「鴫立つ沢」はいうまでもなく《三夕の歌》のひとつ、西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」を踏まえている。
かたや頑強な英雄同士のぶつかりあいにより切り開かれた喉という、強烈な暗喩であらわされた定型の急所。かたや「湯上り」の一語で見事に受肉した、「あはせ鏡」の無限のはざまにたちあらわれる幻の「鴫立つ沢」という観念。
前書きと俳句本体の両方が虚。そのぶつかりあいから生じる豊麗な非在。定型は表現されていないところが重要。「言ひおほせて何かある」(芭蕉)の、これは高山れおな流の変奏であろう。
集中、私が好きなのはつぎの一句。
直(たと)へ相思了(つひ)に益無シト道(イ)フモ、――
君と寝む襖の虎に囲まれて
実らぬ恋というパセティックな前書きだが、襖絵の虎に囲まれてと、北山文化を思わせる虚構ならではの豪勢な舞台。情緒の湿りは微塵もない。
句集の冒頭には次のような一見平明な句もある。
平成十二年 庚辰
初風呂の空まつくらや龍の年
一巻を通読してきた目には、ここでも「初風呂」を置かれることで肉体性を得た暗黒の大空に、「龍」という(これもギリシア神話や西行と同じく)引用をぶつけることで、力漲る《間》を実現していることは瞭然。
全巻を通じて他者、引用との交響により、豊かな虚の空間が切り開かれているが、それだけでなく、そこにしっかりと作者の身が入っている。作者自身もグロテスク様式の虚構の唐草に取り込まれながら。
装丁造本も破格だが、内容はそれ以上。久々に刺激になる句集を読んだ。
れおなさまは私にとってのスターなのですけれど。
私もこの句集は大好きです!
もうどれがどれとは言えないくらい(>▽<)!!!
投稿情報: 野村麻実 | 2008年11 月 8日 (土) 10:15
>野村麻実さま
華も勢いもありますからね。
いわゆる俳句らしい俳句ばかりだったら私も終生興味を持つことがなかったかもしれませんし、詩や小説と横並びで普通の読者が読める句というのは貴重です。
投稿情報: 関悦史 | 2008年11 月 8日 (土) 18:54