1996年
花神社
また「花神コレクション[俳句]」からの紹介で、今度は『平井照敏(しょうびん)』の巻。
平井照敏といえば『新歳時記』(河出文庫)や名アンソロジー『現代の俳句』(講談社学術文庫)の編者で、その恩恵を受けている人は多かろうが、本人の句がどの程度親しまれているか。
照敏はもともと仏文研究者で詩人。のち加藤楸邨門下の俳人となった人。バシュラール、ブランショ、ボンヌフォア等の翻訳もしている。
澄んだ詩性による異界・聖性(あるいはイデーというべきか)への憧憬と無理のない詠みぶりによる気品が特徴。
神や仏教的世界観に同一化して自己を膨れ上がらせるといった道は取らず、明晰な一線を引いての幻視と観照。
この石割らば白き撫子あらはれでん
気違ひ茄子の夕闇白し廃僧院
満月のアクロポリスは恋の時間
黄落を他界にとどく影法師
雲雀落ち天に金粉残りけり
リヤ王の蟇のどんでん返しかな
吹き過ぎぬ割りし卵を青嵐
鶏の首ころがり秋の薄目なり
大川をあをあをと猫ながれけり
鰯雲叫ぶがごとく薄れけり
以上『句集 猫町』収録
秋風にしづかな崖の垂れゐたり
冬の雨椅子ひとつ神を喚びてをり
濤の追ふ冬の鴎の濤を追ふ
ゆめにゐし天道虫が指の上
胸中のばらほどはよく咲かざりき
薄氷に蝶含まれてゐたりけり
河鹿とはあまたの月のふれあへる
フリードリヒ・ニイチエのごとき雷雨かな
「雲雀落ち天に金粉残りけり」は塚本邦雄が、定家、良経から耕衣にいたる古今の雲雀の句歌と並べて遜色ない名品と激賞。「私はこの凄まじい金色に飾られた空隙(ヴァカンス)を前に、また別の繪を夢みる」としてさまざな絵画を妄想し「だが、所詮それも原作一句の、簡潔でストイックな妙手に遠く及ばぬ」という。
「大川をあをあをと猫ながれけり」は永田耕衣による名鑑賞があったはずだが、いま手元に見当たらない。
愛猫家で捨てられているのを次々に拾ってきてしまい、7,8匹の猫にまみれた暮らしぶりだったようだ。「死児食つて猫一声を出しけり」「青芒より現れぬ猫の顔」「炬燵よりおろかな猫の尻が見ゆ」
他に牡丹焚火の句に他界を幻視する力作が並んでいる。「牡丹焚火は燃ゆる母かな闇の底」等。
「リヤ王の蟇のどんでん返しかな」の無意識に触れるナンセンスは、照敏にとっては俳句開眼の一句。後の「短くなくては言えないことがある」との俳論へと展開していく。2003年72歳で死去。
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