これも「―俳句空間―豈」47号からで、今度は伊東宇宙卵さんの連作俳句「非場所(ヘテロトピア)/巣穴掘り編」を紹介する。
たまたま最初に「ストレスがだいぶたまったが、しかたない。」なる一句が目に入ってしまったもので、なんだこれはと思ったが、単なる日常の詠嘆ではない。
というか、ここでの語り手は人間ですらない。
カフカの「巣穴」のごとき謎の生物となり、ひたすら地中を掘っている。
(この方向―この寸法で掘っていいか?)
巣に散らばる血皮と爪が腐ってきた
食われなければ、ひとまずいい。
一応、肉食動物らしい。
他者に出くわした場合は、食ったり食われたりするのである。
むこうから掘ってくる奴、大きいか、だ
ときたま、土に混ってる虫はうまい
それなりに喜びもあるのだ。
そっち方向から水気がくるのでよける。
犬に掘られ、台無しになった個所やりなおし
障害も多い。
(好物は土を出てひろった、魚肉ソーセージ)
嬉しそうです。
括弧がついているのは冒頭の一句とこれだけで、当面外からの刺激がなく、自分の内部と親密になっている印象。
ストレスがだいぶたまったが、しかたない。
ここで転調して、この句が出るのだ。
この後、根に邪魔されて危ぶみつつも良さそうな進路を探りつづけ、次の二句で終わる。
なんだかコトコト笑ってしまうなァ
上・下も掘って広げ、うつくしく――
どんどん場面を変えなければならない連句と違って全句が同じ世界にあり、読者は連作全体から読み取った世界観をまた各句に還元して読むことになる。
私も連作俳句はやってみたことがあるのだが、一句の独立性は自ずと弱まり、ラストではストーリーを収束させようとする磁力をさばかねばならず、全体を短詩としてみると、各句の間にそう決定的な切れ・断絶は入れられないと、いろいろな条件が入ってくる(作っているときには大体そんなことは考えないのだが)。
この連作、「深淵をのぞきこむ者は自分自身が一個の深淵になる。――ニーチェ――」というエピグラムが付けられているが、作中では「のぞきこむ」という実存のまつわりついた垂直性の動きよりも、横へずれ出ていく動きのほうがメインのようで、暗中模索のわりには賑わいや開放感もあり、結構楽しそうである。名作とまで称揚はしないにしても、愛すべき一品といったところ。
ディズニー・アニメのような擬人化とはベクトルが逆で、動物の他者性を消してヒトにしてしまう属領化ではなく、何だかわからないものへと語り手のほうが生成変化していることが、作品に紀行文的な明るみを呼び込んでいるのでしょう。
これ、かわいいですよね~。
何だコリャと正直、最初思ったんですけれど。
まるで詩のよう!
こういうのもアリなんだな~と感心しました。
投稿情報: 野村麻実 | 2008年11 月20日 (木) 01:07
>野村麻実さま
そうですね。
のびやかで変でかわいいです。
伊東さんはもともと現代詩の方が関わりが長かったようで、俳句でも散文詩でもない、詩形の上でも「非場所」である境位を探り続けているようです。
投稿情報: 関悦史 | 2008年11 月21日 (金) 23:43