「秋草」2011年8月号から。
東の空の色なる杜若 山口昭男
一読して杜若の花から空の深みへと誘い込まれる。
夜が開ける直前の空にのみほんの束の間見られる、おそろしいほどの透明感を持ちながら、それでいて未だ黒に近いあの濃紺の広がりが自然に思い浮かぶが、じつはその、朝焼けの朱でもなければ、明けきった白や青でもない濃紺を呼び出しているのは、じつは喩えられた当の杜若のほうなのだ。
上五「東の」の読みは「ひむがしの」であろうから、当然読者は柿本人麻呂の「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」を想起する。
この句が人麻呂歌の壮大さを眼前の花の瑞々しさに転じていながらスケールダウンの窮屈さや弱まりをさして感じさせないのは、杜若のほうから「東の空の色」が放出されているからであり、その結果として「東の空」と「杜若」との間に息がかよいあっているためだろう。
小さなものへの親愛さを示すことの多い作者が、人麻呂歌を介することで、その持ち味を生かしたまま深々とした澄んだ呼吸を得た句といえる。
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