2010年
ふらんす堂
『きざし』は俳句結社「炎環」の若手女性俳人5名の作品、各80句をまとめたアンソロジー。
序文・石寒太。
「雲の白」新井みゆき (小論:伊藤無迅)
銅像のうつむくまぶた春の雪
そびえ立つパイプオルガン流氷期
腕章の一団静か冴え返る
仮設ステージのプリムラ過密なり
スプーンに掬はれてゐる銀河かな
飴色の石見つけたり冬の果
モノが際立った句ばかり拾ってしまったが、人事や感情を詠んだ句も多い(《雪解川叶ひし夢を忘れけり》等)。上記のモノの句も非情な写生というよりは、それぞれ濃淡を持ちつつもモノを通して出てくる情感が主の印象。
感情がよく伝わるが、伝わりやすい分句が小柄になるということもある。
中で《飴色の石見つけたり冬の果》の「飴色」は、その重さ・甘さの連想が、「冬の果」に「石」を「見つけた」という感情的小世界から、ほんの少し物質界へノイズのようにずれ出し、重石になっている気配がある。《銅像のうつむくまぶた春の雪》の「まぶた」も同様の機能を果たしているか。
「河ふたつ」石井浩美 (小論:市ノ瀬遙)
地下鉄に水の流るる音二月
花の昼孤舟のごときベンチかな
舌先にスプーンまろし梅雨の月
柚子湯して陰の毛どこか頼りなし
初山河夫婦となりて訪ふ生家
おもちや屋の兵隊・戦車溶けし火事
健康的な普通の生活を詠んだというだけのことで終わっていないのは感覚の裏づけによるわずかなずらしが含まれた句で、これらの中では「地下鉄」の「水の流るる音」、「花の昼」で孤絶を和らげられた「孤舟」、「スプーンまろし」の触覚で口中の食べ物のようにイメージがずれた「梅雨の月」などにそうした機微が見やすい。正面きって対峙した写生よりも感覚を通して自然へと開け、安らぎが生まれている。
「大丈夫」近恵 (小論:齋藤朝比古)
いつつより先は数へず春の波
逃げ水の端を見つける踏んづける
花は葉に次の駅まで歩かうか
とろろ擂る大脳の皺伸びるまで
黒々と巨人立ち上がりて驟雨
羊羹に似し真夜中のプールかな
マフラーをぐるぐる巻きにして無敵
とつくりセーター白き成人映画かな
《いつつより先は数へず春の波》等、一見取るに足りないような事柄を詠んだ肩の力の抜けた佳句が印象的だが、その背後には非意味性やシニカルな面白み、また、かけ離れた比喩や見立てによる心の浮き立ちへの反射神経がある。それをこれ見よがしの鈍重なものにしない手さばきが持ち味なので、そこまでの操作が一瞬で出来てしまうタイプの作り手なのだろう。
「奏でるやうに」斎藤雅子 (小論:榎本慶子)
おはじきのひとつひといろ春の星
消しゴムに目鼻描きゐし養花天
風船のこころもとなき糸の端
夏の雨奏でるやうに降り出せり
天狼やこころの底に迷ひ込み
出産・吾子を詠んだ句が基調をなしているので全体にカメラの距離感・価値観が「ヒューマニズム」のスケールにほぼ固定されてしまっており、上記の「おはじきのひとつひといろ」「消しゴムに目鼻描きゐし」などもそういうバイアスをかけて読むと重くなってしまう。このあたりは軽く、明快な句として受け取りたい気がする。
「晴れわたる」宮本佳世乃 (小論:中島憲武)
桜餅ひとりにひとつづつ心臓
夜の秋柱は家を支へけり
夕焼けを壊さぬやうに脱ぎにけり
秋の夜のひらたく人の家にゐる
弁当の本質は肉運動会
土曜日が終はらぬやうに踊りけり
明日より新年山頭火はゐるか
山吹の斜面にひとり残さるる
神さまに顔あり蛙の目借時
ともだちの流れてこないプールかな
白桃の種のまはりをもてあます
流れ星そつと岸辺に打ちあがる
白鳥の羽とつながる糸電話
一句一句に飛躍と断定が仕組まれていて、このアンソロジーの中では最も句を作るということに自覚的なように見えるが、作為的なところがない。単に本人が楽しんでいる・寂しがっている・楽しみを分かとうとしているといった気持ちの弾みが句の中心にあって、その結果、肉の締まった表現になっているのだろうという感じがする。
句を作るというのは自分の思いを一方的に伝えるために言葉を組織するということではなく、まず何より、誰でもない他者としての自分を楽しませ・楽しみ、その結果として、自分としての他者が読者として引き入れられるので、そうした機微自体が、木とか肉とかみたいに投げ出されて句になっている雰囲気が面白い。
この中では技の目立たない句だが《秋の夜のひらたく人の家にゐる》が妙に可笑しい。
※本書は宮本佳世乃さんより寄贈を受けました。記して感謝します。
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