1988年
『晩祷』は、おそらく俳人としてはほぼ知られずに終わったのではないかと思われる永松白葉子の40年分の句を、松尾立石なる知人が編集し初子未亡人が刊行した句集。
知人たちに配るものという前提で本を作っているのためか、著者の略歴といった基礎的データがなく、生年や没年齢すらわからない。
鶴田漁長なる人物による序文には《白葉子さんは初めから自分の踏み進む句系として「馬酔木」を選ばれ、身近には下村ひろし先生の「棕梠」に傾倒して》、川崎紀男なる人物による弔辞には《鷹羽狩行先生の『狩』にいたるまで幅広く学びとられ》と、故意なのかただの気取りなのか曖昧な書き方がしてあって、これらの結社に著者が生前所属していたのかどうかも判然としない。
句集には昭和23年(1948年)から61年(1987年)まで(つまり生涯の句歴全てを覆う範囲)の句が収められて、嫌味なところやひどく陳腐な類句といったものはさほど目立たないから仲間内だけでやっていたとは思えないが。生活臭の強い素材から理知的な叙情を引き出した清潔な句が多く、通して読むと昭和の暮らしの手応えのようなものが句集一巻の底の方から感じ取れ、木材や鉄の機械に埃と湿気がまつわり静まった古い空家に踏み入ったときのような懐かしさがある。
弔辞から拾うと、佐賀県出身、戦時中は第21海軍航空廠、戦後は一貫して長崎県の大村市役所に勤務したクリスチャンというプロフィールになるらしい。
無論私とは何の縁故もない人物なので、何でこの句集が家にあるのか少々謎である。
満たしたるインク匂へり事務始
山を負ふ螢の闇の深さかな
螢火のそれし田の面の水明り
日蝕の水底蜷の進路乱れ
凍飯に白湯ぶっかけて少年工
眼を病みし妻の多弁や蜆汁
芥焼く煙枯野を遁れ得ず
台風圏深海魚のごと寄りて寝る
芽吹く木に晩祷の燭暈つくる
病む少年に折紙の蝉声立てず
滝風によろめき揚羽産卵す
啄木忌鯛焼の目より餡噴きて
冬を越す目高眼の環の金寂びて
薄暑の坂喪主の歩巾で進む列
芙蓉咲き七曜巡ること早し
昏るゝ野の一線支へ曼珠沙華
雪嶺の方へ給油の針うごく
格子戸に残る明治や風の秋
襞ふかき臓器の標本冬に入る
臓器標本は句材としては陳腐化しやすい。「襞ふかき」の具体性と「入る」で季節のうつろいを引き込んだので生きた。中八の字余りは作者に充分な推敲の機会が与えられた場合、あえてこのままであったかどうか。
モナリザの目に見られおりソーダ水
花言葉もたない草ばかりの花野
紙の雛飾るに紙の音たてて
店の風掬ひてえらぶ捕虫網
赤い羽根徒食の胸を飾りけり
汗臭きオテンペンシャのよま解(ほつ)れ
註、オテンペンシャは隠れキリシタンが已(ママ)を責めて鞭うつために「よま」で慥しらへたもの。
註が付いているがその註に出てくる「よま」がまたわからない。
検索してみると長崎市の観光情報のページに、長崎地方では縄より細く、糸より太いものを「ヨマ」と呼び、「ヨマ」は「チヨマ」から変化した旨の記述があったが、その「チヨマ」が何であったかは謎のままにされている。アミダクジ的展開の果に謎が謎のまま投げ出される後藤明生の小説を地で行く展開だが、ウィキペディアの「カラムシ」の項を見たら《別名は苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、紵(お)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)。また、カツホウ、シラノ、シロソ、ソロハ、シロホ、ヒウジ、コロモグサ、カラソともいう》という記述が見つかった。
イラクサ科カラムシ属の植物で現在では雑草扱いされることもあるが《衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れるため》《『日本書紀』持統天皇7年(693年)条によれば、天皇が詔を発して役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとし》たという。由緒正しい雑草だったわけである。
隠れキリシタンの句としては物だけを描きながら異様に生々しい句で、聞きなれない「オテンペンシャ」や「よま」が異化的な効果を上げている。
どんどの火浴びて子供ら歓喜仏
男手に濯ぐ二月の水緻密
むらさきの色うすれゆく昼寝覚
夢二忌や紙人形の一重帯
磨り減りし踏絵が冬の灯をはじく
また一人語り部減りぬ原爆忌
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。