マニエリスム的というべきか、細部と画面全体とのアンバランスさの中にハードな写生を鋳込んで、通常の二物衝撃とも、禅なり密教なりの信教の体系のなかに想念を解放するのとも違った作り。異なるパースペクティヴ同士の裂け目という、主に知覚的な違和への凝視が緻密で謎めいたリアルな手応えを生み、ときにエロスや諧謔を生むといった句が多い。
時鳥頭上で橋が断(き)れてゐる 竹中宏
白皙の弱法師(よろぼし)擁(だ)かれ柏に夏
うまづらはぎ六林男と違ふ兜子とも
ウマヅラハギはカワハギの一種でその名のとおり目からおちょぼ口までの距離が長く、造型の歪みの中にあたかも言いたいことを抱えつつ性情の頑なさをもって言い尽くせずにいる風情。どちらとも「違ふ」ということで逆説的に六林男や兜子へ相似という線を引く。
蚊とりマットがまた香にたてば主題は悔い
炎天に金鵄(きんし)を金(きん)で造型し
あやとりの梯子消えうせ地虫出づ 岩井未知
白百合の胎児の貌に似る球根
象老いて春日にかろく四股をふむ
山吹や浮きつつ遠く祖父母の旅 泉史
どこにあるのか友の魂(たま)はさくら鯛
キウイ囓る電子計算機に似た夕立
白障子閉てて四隅の気が撥ねる 中村紅絲
凍つる夜の棚の大巻貝鳴るか
胎内に海と桜とただよひぬ 中野真奈美
大いなる寒満月や他は見えず
マックス・エルンストの『都市の全景』を連想した。「他は見えず」の他の中に人事、歴史、その他万象が繰り込まれ、宇宙的始原的圧力をかけるものとして寒満月がある。
留袖の袂のゆれの寒卵
鏡餅開くや疝気治まりて 上羽美津子
逃げ水や双手離るる乳母車
家宝にもなれぬ大壺春愁ひ
水仙と同じ背丈で走り来る 八島惠理
デモ隊の先頭に母白地着て
輪郭の光る子どもらしやぼん玉 小林千史
母恋ひの羽蟻の歩く紙鍵盤
満開の桜にしがみつく病気 今小路小百合
夏帽子目深に骨格模型が立つ
短夜を読みのこしおく壇の浦 檜學
一山の膨れる想ひ蝉時雨
今にして寒肥のこと父のこと 橋本シゲ子
想起の中に並列させられた具体性・細部性としての「寒肥」、茫漠と情のまつわる「父」。位相の違う二つの要素の断裂から、家と暮らしの記憶の全領域が浮かび上がる。
ひろびろと昼の闇ひく雛かな
丸き石にまるくからまる蝌蚪の紐
ざるに摘む蓬多くは裏がへる 小笠原京
冬陽中鉛筆削る無用の数
水掻をひろげ水餅を掬ふ
煮凝や四時(しいじ)更へざる飾りもの 島田刀根夫
枇杷の木にあたらしき葉や鳥の恋
つていふかなんで『受胎告知図』に蝸牛(かたつむり)なの 上野遊馬
イタリアのルネサンス期の画家フランチェスコ・デル・コッサの『受胎告知』には実際にカタツムリが這っている。図像学的にはカタツムリが露によって受精すると信じられていたことから、聖母マリアの表象へと転じたとのことだが(白水社:ちょっと立ち読み『なにも見ていない』のページ参照)、この句はその唐突な違和感を《つていふかなんで》という前節を書いた突然の接続から始まる話し言葉(しかも表記は旧かな)で立ち上がらせ、西洋の聖図像史の宇宙とわれわれの卑近な日常との齟齬を、両者の蝶つがいのような位置にある《蝸牛》に凝縮させている。《蝸牛》は文化と時空の差を一身に背負いつつ我関せずとイメージの中を永遠に這い続けるわけである。
夏兆すむろんレーニンの灰色の鬚(あごひげ)にも
火事一つ溲瓶の首が歪みたる 小笠原信
湯灌する指の逆剥け雪催ひ
寒鯉の鰓微動する常世かな
半睡のライオンに花はらはらと 西川章夫
夜櫻の下にはげしく水縺る
佐渡汽船近づいてくる朧かな 百尾庸子
涸池へ倒れ落ちたる桜の木 河村喜代子
作業衣の男ばかりの花筵
さくら散る十字架どんどん小さくなる 海老禮子
蝶生れ離れがたきは濠の水
青葉光別の世からのチャイム鳴る
春夕映富士の裸身のぬらぬらと 小山森生
両岸の今なかほどを泳ぐ蛇
菜の花に囲まれ大鍋にポトフ 涌井紀夫
花鋏に噛まれし血豆夏はじまる 宮下初子
なおこの号には田中亜美さんの「さようなら、第二芸術―「桑原武夫集」を読んで」も掲載されている。《俳句の世界ではなぜ、あれほど「第二芸術」が話題になったのだろうか。なぜ「堕落論」が書かれなかったのだろうか、と。(中略)私にとって「第二芸術」はもはや問題ではない。「堕落論」の発見と確立というものが、目下、一番の重要事であるような気がするのだ》。
コッサ『受胎告知』
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