富士見書房
1997年
岡井省二の第9句集。
以前とりあげた『大日』のふたつ前にあたり、つまり最後から三番目の句集である。
400句足らずの句集だが、この時期よほど気力が充実していたのか、佳句を引き始めたら際限がなくなった。
まず劇場公演か芝居小屋よろしく「前口上」がつく。
前口上
密教的俳諧展開
俳諧的密教展開
宇宙の胎内化
生命誕生記憶の喚起形象化
精神の物質化
アニミズム、エロチシズム劇場
暗黒舞踏のチラシのような怪しさだが、作者が何を読み取ってほしいのかが、これでもかとばかりはっきりと念押しされていて、中身についてもこれ以上鑑賞文の必要なところは特にない気さえする。
言説(ディスクール)性が明確になればその分テクストとしての多義性やら豊かさは犠牲になりそうなものだが、そうならないのが面白いところ。
えゝ五體してをる峯の櫻かな
冒頭からセクハラまがいの眼差しで桜を性愛の場に引きずり込んでしまう。いきなり美しい肉体に変相させられた桜の困惑がおかしく、前口上にあった「俳諧」と「密教」の重なり合いの見本のような句。
鳳蝶のいろうてゐたる密寺かな
「いらう」は関西方言で「いじる・弄ぶ」の意味らしい。アゲハはよく死者の霊の象徴として使われるが、他界から見れば、ことごとしくあの世この世の秩序を荘厳してみせる密教寺院も物質で出来ているかりそめのものには違いないので、これは少しちょっかいを出してみたくもなろう。
さくら咲き河馬がおからを食べてをる
臥てあたま横にして見るさくらかな
烏貝鼾となつてゐたりけり
七月三日 加藤楸邨逝く
炎天がすは梟として存す
岡井省二にとって師の楸邨は個の激情たる「怒濤」ではなく、あくまでも「ふくろふに真紅の手毬つかれをり」の物質的因果律を軽々と超えた妙境の俳人としてあったらしい。
甜瓜(まくはうり)二箇縦におき歸依したり
二箇縦にとなると甜瓜があたかも精巣か卵巣のようでもある。無個体的な繁茂・転生をこととする植物がいきなり、仏像とも生殖器ともつかぬ玄妙な性愛的・動物的様相を示す。これは帰依せざるを得まい。「縦におかれ」ではなく「おき」なので、語り手が自分でその相を引きずり出しているわけだが、この強引のおかしみが岡井省二ならでは。
人間に鳴き烟りには鳧鳴かず
らんちうのなほ凸凹(でこぼこ)と睦めるや
さねかづらちよつとしごいてみませんか
梟の喰ひ残したる白鼠
「白鼠」が「鼠かな」であればおよそ句にならない。「白」の神性が重要なのだが、それがまた食い残されて死穢となり、腹の中まで開け広げて横たわることで宇宙的秩序のなかに穏やかに場を占めることになるのである。個としての白鼠にとってはおよそ迷惑な話かもしれないのだが。
つつじ咲き巨頭鯨と灣うごく
つつじと照応しつつ地形までが鯨ともどもゆったりと非物質的にゆらぎはじめる生命・非生命の境を越えた幸福感がすばらしい。
鯛の鯛夏の遍路となりゆけり
註 鯛の鯛は、鯛の骨。鯛の形をなす。その家紋などあり
俳句の解説に句と同内容の写真や映像をつけるとまずろくなことにならないのだが(聴覚映像(シニフィアン)の組織体としての俳句を、実際の映像が破壊してしまうからである。NHKの俳句番組などで時々見かける)、確固としてこの世に実在するにも関わらずあまり馴染みのない物件なので「鯛の鯛」の写真をつける。主に胸鰭を動かすのに使う骨らしく、鯛のなかからまた同型の鯛が出てくるというフラクタルじみた面白さに惹かれたか、省二には他にも「鯛の鯛」の句を幾つか作っている。
芭蕉の花めくれ落ちたる水の上
このしたたるような色香と端正さのあっさりとした実現も掬すべき。美辞や思い入れで句を成らせようとする向きには良薬かもしれない。
秋や豈天井に狒々ぶらさがり
たましひがからだのまなこ鯨見る
いわゆる“心眼”を詠んだ句。この後「まなこ使はずよく見えて冬の山」というのもある。
みみづくや湯呑の中に京の街
ふじつぼでだしをとつたる夏の暮
吉野にて臙脂さしたる鵙の贄
ばいの身のこりと天地泥くさき
神曲に髭ふれて猫はらみけり
兼好忌ここから先は蛭の降る
讃岐にて無限に蝦蛄をむいてをる
六月のさくらの幹の赤い脂(やに)
あぢさゐの色をあつめて虚空とす
夏潮に鯨きてをりデスマスク
空と海のどこみまはすや桃の皮
月光が只今(しこん)お好み燒きである
くさびらに巴の太鼓打たれける
まぐはひは神ぞよろこぶ朱欒かな
巻末には、あとがきや自跋の代わりに「後口上」というのが付く。
後口上
一即一切
一切即一
刹那永劫
永劫刹那
肉親証三昧
萬物照應劇場
この劇場性へのこだわりは、単にこの一巻が己が主宰する場であるという宣言であるというに留まらず、ここに登場する鯨、梟、鯛の鯛、くさびら(きのこ)、甜瓜等々動植物一切が俳優であるとの謂ではないかと思われる。俳優は古くは「わざおき」と読み、「面白おかしい技を演じて、歌い舞い、神や人の心を和らげ楽しませること。また、それを行う人」(大辞林)を指した。俳優たる万物に対し、省二は演出家として振舞っている。省二の己が演出ぶりに対する自負が窺える。
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