ふらんす堂
2001年
著者は日本人。「俘夷蘭」は無論俳号で「ふ・いらん」と読む。
如何なる事情でか入獄し、そこで俳句を始める。「先哲に倣ひて春の獄に入る」「行く春や鉄扉閉まりて一人座す」。
古本屋でたまたま見つけて買った句集で、私もこの著者については何も知らない。帯に佐藤鬼房が「荘子の実存的な発想を思わす『超獄』が何とも清々しく、しかも良質のオプチミズムが作品に通底している」と推薦文を寄せ、跋文を高野ムツオ、佐怒賀正美が書いている。
「イラン囚茄子の味噌汁配りをり」「囚は皆へのへのもへじ油照り」「号令一下みな啜りこむ水羊羹」と剛直な写生句が序盤に並ぶ。
夏の獄母が仏となるところ
心象を詠みながら情に溺れず、獄にある心身がそのまま救いや明るみに通じている。
高塀は国家なるかな夾竹桃
遠方は過ぎ去らざりし超新星
昼寝覚われ不在なりかつ非在
思念を凝視して即物性に至る作風というべきか、宇宙や存在論の佳句も多い。
虫食へば尾を曲ぐるなり赤蜻蛉
共同体あり故に罪ありなめこ汁
独房に便器一つの白き秋
男囚の刑吏に惚れし虫の声
ジュネや塚本邦雄に通じる世界。事実の裏づけがあると思えば耽美どころではなく、むさくるしいばかりであったかもしれないが、「虫の声」の内省性が醜をそのままに包容し、鎮めている。
山毛欅の実のすべては土に落つるべし
包帯の男ふりむく獄に星
幻影の重なりのわれ秋思せる
集中の白眉のひとつ。跋文の高野ムツオは「観念の具象化へ向かう詩の炎である」と称揚している。
「いくつかのわが影法師秋の暮」なる、発想を同じくする句もあるが「幻影の」の求心性に対し、こちらは外界への遠心力が働く。
精神も拘置可能の空に鱶
精神も拘置可能といいつつ座五がそれを裏切る。反骨性を担った幻想の鱶が、どこかユーモラスでもあり、情の強張りに陥らない。
布団干すわれといふ檻かの世まで
「旧約」は罪の大全夜寒なり
みる我をみる雪嶺の目の数よ
夜の獄浮き世離れの梅一輪
青地球人は夕映えたりうるか
光と化して滅ぶ自他もろともの解放の未来相を思う句。丈が高い。
出所門わが刺青は銀河なり
ここまでで独居房の句が終わり、以後は出所後に旅した「ガンガー河」の句となる。
麻の実や無歴史時間にしびれたる
枯蔓や幻覚くれし神の酒
ストーパは大乗生みぬ芝刈れり
眼となるは生きしことかや灼け仏
ガンガー河魂のごと檸檬浮く
黄のたゆたいがつきささる。これも著者の代表句でしょう。
秋の日はガンガーに落つ 音楽
氷河湖のとける水音アラヤ識
次の世も水牛ならむ水浴びて
秋古城象のタクシー悲しかり
秋燭の千のきらめく王の寝間
文明は糞の城なり赤砂漠
亜熱帯星の川には星の貝
題名の『超獄』は、獄に居て獄を超える存在論への志向とも取れるが、生そのものが獄であるという認識をも併せ持つ。この両義性の狭間に、俘夷蘭の天地がある。
俘夷蘭…1940年生まれ。「左岸」同人。
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関さんとは、俳句作家へのアンテナが、とkどきひっとしますね。趣味志向がすこ合うのかな?
孚夷蘭 幾つかはいりきれないところがあり、数年抱え込んでいる作家です。巧いとは言えないけれど、なにか自分の追いつめかたが、ユニークと言うか・・。
投稿情報: 堀本 吟 | 2009年1 月24日 (土) 11:05
堀本吟さま
この人のを読んでいるという人が出てくるとは思いませんでした。
私の場合はもともと現代詩の延長として読む方から俳句に入ったもので、そうするといわゆる伝統俳句というのは、ほとんど読書対象として引っかかってこないのですよね。謎や不可解なところがどうしても残るという作家の方が面白いです。
投稿情報: 関悦史 | 2009年1 月24日 (土) 18:12
> 夏の獄母が仏となるところ
「獄中記」という本を読んでいて、
当たり前のようでいてふと気がつかされたのですが、
肉親が死んでも獄中の人というのは、葬儀はともかく、
あとで報せを受けるのみ。
ひょっとしたら、そのことを詠んでいるのかしら・・・。
とチラッと思いました。またはそういう方が身近にいたか。。。
獄につながれるのは嫌ですね。
身近な話だけに。。。(←自虐ギャグですので放置お願いします)
最近も知りあいのDrが刑事の任意聴集を受けたとかそんな話ばかり。
あ~やな職業だ。(ここも独り言)
投稿情報: 野村麻実 | 2009年1 月24日 (土) 22:50
そうするといわゆる伝統俳句というのは、ほとんど読書対象として引っかかってこないのですよね。謎や不可解なところがどうしても残るという作家の方が面白いです。」(貴)
私も、まあ、そういったところです。孚夷蘭氏は、鬼房氏以来現在も高野ムツオさんの小熊座にいます。思索性は豊かですが、存在論と言うような深読みはしない方がかえっていいのでは。作品はそこまでは達していないと想います、デモ、好きですよ、ナンカ・・。
投稿情報: 堀本 吟 | 2009年1 月24日 (土) 22:59
野村麻実さま
母と獄の句、言われてみればそういう読み方もできますね(かなりつらい句になりますが)。
大野事件はともかく無罪になりましたが、厳しい状況自体は変わっていないのですよね。
投稿情報: 関悦史 | 2009年1 月29日 (木) 00:55
堀本吟さま
素材としての自分の身辺・身体・生活にのみリアリティの保証を求めるやり方ではありませんからね。素朴さが残るとはいえ、この方向で一定の手ごたえに達しているのは貴重だろうと思います。現在では特に。
投稿情報: 関悦史 | 2009年1 月29日 (木) 01:01
「閑中俳句日記」大変興味深く拝見しております。俘夷蘭句集 『超獄』ははじめて知りました。
門外のママ多少俳句を囓るモノの、不勉強で俳句の本はほとんど読まないので、関悦吏さんのところで勉強させてもらってます。
「昼寝覚われ不在なりかつ非在」この句なんか、よくわかりませんが、自同律(じどうりつ)の不快なんてコトバを思い起こしますが。。。いや違うかな。。。面白いので注文しようかなと、思案中。
「悦吏の部屋」も読ませていただいてます。ワタクシには難しく理解は困難かもしれませんが、「マクデブルクの館 一○○句」をはじめ、「豈」や週間俳句の作品、評論など、読むものを飽きさせず、面白いです。これからも、活躍を楽しみにしております。
投稿情報: 七風姿 | 2009年2 月24日 (火) 23:28
七風姿さま
はじめまして。コメントありがとうございます。
いろいろ読んでくださっているようで恐縮しております(ただこちらの名前が微妙に間違われているのですが…。「悦吏」ではなくて「悦史」です)。
私もこの本はたまたま古本屋で見つけただけで、著者については何も知らないのですが、この句が直接関係あるかどうかはともかく、作風からして埴谷雄高の『死霊』あたりは読んでいそうですね。
今後もよろしくお願いします。
投稿情報: 関悦史 | 2009年2 月28日 (土) 00:40