2008年
角川書店
別に意図しているわけではないのだが、女性俳人が続く。
今回は澁谷道の新刊『蘡(えび)』、「平成十三年後半から十六年までの三百二十句をまとめた」第十句集にあたる。
あからさまに超現実的な景を詠んでいるわけではないにもかかわらず香気に富んだ高雅な虚空性が漂い、透明な鉱物の結晶のようなエロティックさが現れるのが特長。
ひえびえと鎧うてすわる鏡餅
雲の辺に唐土の鳥や薺(なづな)粥
七草粥の七草を刻むときの囃し歌「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に云々」を踏まえている。渡らぬ先にと歌われる唐土の鳥がすでに少しのぞいている。
聖書一冊雪のホテルのひきだしに
飴切包丁乾ける音に春を聴く
さくら咲き脳はまだらに照り翳る
白壁と風の桜と揉み合へる
伊吹山うすあをく聳(た)ちころもがへ
秋風やくびに静脈(あをすぢ)泛く栗毛
峰越えの汗の韋駄天それが祖父
これは「百年の昔祖父盛孝とえにしありし/京・久多(くた)を訪うて」の前書きのある十句連作の中の一句。
痩せながら怒る蝮や瓶を噛み
苦瓜のさはやかにしていくさ憂し
にがき秋なり帚星塵ひからせ
富みながら嘆くひと居て篝火草
篝火草尻端折(しりはしょり)つて知つてるかい
「篝火草」はシクラメンのこと。
万華鏡のなかで暴れる花ざかり
コリーきて未央柳の蘂似合ふ
猫ではなく犬の人だったかと思う。「未央柳(びょうやなぎ)」は柳ではなく鮮やかな黄色い五弁の花。それを鼻筋の通った洋犬に取り合わせた句で、「賢そう」だの「素直そう」だのべたべた褒めなくともこれで情意は通じる。
白髪は涼し青年に囲まれ
炎帝は独りジャングル・ジムであそぶ
理趣経のきこえてきたる蝉しぐれ
「理趣経」は真言宗で読誦される、性行為までをも大胆に肯定した経典。蝉しぐれの粘った淫猥さを言いとめるのに、この手があったか。
凌霄花肌をあらはに無邪気なひと
重なりつ色まじはらで揚花火
目の利いた写生句としても読めるが、この直前に「亡き末弟盛昭へ」の前書きのある「花咲けば竹枯るるとや遠花火」が並ぶ。死者への思いを含む句。
傷負へる悍馬にも似て花火の夜
下五、「夜の花火」であれば平板な写生に終わるが、「花火の夜」で時空を孕んだ。夜空と夜という時間全体が「傷負へる悍馬」の面影の、気高さ、痛切さを負う。
ふよらふよら腑に落つ桃のゼリーかな
「ふよらふよら」の奇妙なオノマトペもさることながら「腑に落ちる」という自動化した言い方(俗に落ちやすい)をあえて用いたことで、桃のゼリーという存在の奇妙さ、それへの得心・肯定が同時にあらわされている。
滑走路まもる無数の秋灯
「まもる」が軽い戦慄を呼ぶ。何ものにまもられているのか。
をみなとて空山幽谷ふところ手
性別も老若も生死も超えた凛とした立ち姿。それらの差異を無化しているのではなく併せ持ってアンドロギュヌス的な混沌を体現しつつ細みに至る。
囀りを真似しそこねてまた独り
国破れず山河くづれて雛おはす
紫薔薇(マダム・ヴィオレ)棘の間合ひをはかりをり
うすぎぬの胸に当て消すハンド・ベル
椋鳥(むく)大群その黒ヴェール纏ひたし
表題『蘡』の見慣れぬ文字とのなれそめ(なれそめという語が相応しく思える)が、あとがきに書かれている。
文字を覚え始めた小学生の道に、母が頻りになぞなぞを仕掛けてくる。「弱い魚はなんでしょう」「春咲く花の木なにかしら」。
そうした中「二階の下に女のひとがいて、そばに木があるの。何の木でしょうか」といって教えられたのが「櫻」の文字だった。突如あらわれた満開の桜に美しく映える女人のイメージとともに「事物と文字の神秘ともいえるかかわりが無意識のうちに」道の心に刻まれた。
この字の旁「嬰」は貝をつらねた女人の首飾り、転じてその胸に抱くみどり児を指すという。「神秘の感じはこの文字から古代の匂いを嗅ぎとったからでしょうか」。
草冠の「蘡」は、山に生える蔓だちの葡萄を指すとのこと。
澁谷道…大正15(1926)年、京都市生まれ。平畑静塔に精神神経科学と俳句を師事。連句を橋閒石に師事。昭和58年第18回海程賞。昭和59年第31回現代俳句協会賞。「海程」「紫薇」所属。
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