深夜叢書社
1999年
年明け最初は孤高の審美家、馬場駿吉を取り上げる。
馬場駿吉は俳壇から遠く離れて句業を築き、瀧口修造、武満徹、澁澤龍彦、土方巽、寺山修司らと交流、複数の美術評論集をも持つ。
『海馬の夢―ヴェネツィア百句』は「貴腐の家」「快樂と死」「黄金回路」「不死鳥座炎上」という4章から成り（章題を見ただけでもわくわくしますね）、学会への出席（著者は耳鼻咽喉科専攻の名古屋市立大教授だった）等で10回に及ぶヴェネツィア行の精髄を100句に搾った第4句集。
黒塗りのボール紙製外箱の中身を引き抜くと銀の内箱があらわれ、この内箱が真ん中から二つに割れてようやく本体があらわれるという、それ自体が工芸品のような凝った造りの一冊。
全句にイタリアの詩人ルイジ・チェラントラによる翻譯がついて、見開きの右側に元句、左にイタリア語譯が配され、あいまに北側健次制作によるオブジェの写真が挿入されている。装幀は高麗隆彦。
「貴腐の家」の章は仮面舞踏会の句から幕を開ける。
春黄昏假面つければみな無名
黄金宮も夜は泥色猫の戀 ※＝黄金宮に「カ・ドーロ」とルビ
つや消しされた黄金がかえって鬱然たる輝きを増している。
朝寢さめて卓布にジャムの惡の華
ヴェネツィアに貴腐の家々水温む ※温は旧字
貴腐は白ワイン用のブドウが菌（カビ）に感染しすることで糖度が高まり、芳香を持つようになる現象を指す。
水につかったヴェネツィアの家々を貴腐に見立てた句で、外面だけではなく、そこでの暮らしや歳月といった内実をさらりと荘厳している。
サド全集積めば古塔や薔薇の晝
サド当人の収監されたバスティーユ監獄をその全集が真似てしまうというアイロニカルな一句で、座五でその監獄がそっくり反実世界へ翻る。
罌粟亂れ過去こそ薫しき腐肉
一身に大罪七つ更衣
大概の日本人からすれば輸入された文物にすぎまいキリスト教の「七つの大罪」すなわち、 傲慢 (superbia)、嫉妬 (invidia)、憤怒 (ira)、怠惰 (acedia)、強欲 (avaritia)、暴食 (gula)、色欲 (luxuria)の七つを、「更衣」の一語で一挙にわが身わが事にひきつけてみせた、季語の斡旋のアクロバットが見事。
ヴェネツィアに櫻桃を食み櫻桃忌
以下「快樂と死」の章より。
天へ階残す癈館猫の戀
月下ふと假面に死相謝肉祭
逝く春の墓前に朽ちしトウ・シューズ
チーズ黴びアッシェンバッハ忌不明
「アッシェンバッハ」はトーマス・マン原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督の伊仏合作映画『ベニスに死す』の主人公を指す。美少年に惑わされ、疫病に客死するアッシェンバッハの忌日、虚構なので知るものはいまい。虚構ゆえにその精神性の偏差はかえって際立ち、黴びたチーズが一句への受肉を果たさせる。
雷火飛び墓中にストラヴィンスキー
わが死後も鳴るピアノなれ秋深し
逆剃りのわが頬燃えて悲傷聖母圖凍つ ※＝悲傷聖母圖に「ピエタ」とルビ
以下「黄金回路」の章より。
桃酒の一盞ほどの春の鬱 ※＝桃酒に「ベツリーニ」とルビ
ガラスペン折れて薔薇色なる春夜
春光を海より紡ぎレース編む
輕業師ゐし空にいま春の月
逆吊りの薔薇縛めの紐は黄金 ※＝逆に「さか」、黄金に「きん」のルビ
大地より巨手の彫刻夏來る
石榴割る肉の黄金回路醒め
以下「不死鳥座炎上」の章より。
烏賊墨に舌染め小惡魔の春夜
「小惡魔」のエロティックを浮薄な符号に終わらせない手際がさすがですね。
舷飾の海馬の夢に春の雪
書名の元となった句。
海馬はタツノオトシゴ、セイウチ、短期記憶を司る脳の馬体、ギリシア神話の生物ヒッポカンポスと大まかに4通りの意味があるものの、この句は最後のヒッポカンポス、ゴンドラの船首に飾られた半馬半魚の怪物の彫刻のこと。アッシェンバッハの句と言い、虚を通してこそ実存に迫れるというのがこの作者の特徴のひとつ。
あとがきには耳鼻科医には馴染み深いはずの脳の海馬体との類似にも触れた後「馬はまた私の姓名へのつながりも濃く、海馬はヴェネツィアに魅せられた私自身なのかも知れない」とあった。
濃紫陽花ヴェネツィアいまだ溺死せず
都市も溺死するのだ。滅びの予兆を維持しつづけ、耐えつづける都市に、句は硬質なまま寄り添う。
わが射手座墜ちゆく海に水母殖ゆ
惡聲の孔雀を飼ひてカサノヴァ忌
掉尾の3句は、1句目に「一九九六年一月二九日夜」の前書きを持ち、滞在中実際に火災に出くわしたと思しい。奇禍というべきか奇嘉というべきか。
金獅子の眼下に歌劇場の火事
不死鳥座燃え落つ中に大鏡
歌劇場全燒の夜を熟睡す
馬場駿吉…1932年、名古屋生まれ。名古屋市立大学医学部卒業。同大学医学部教授、同大学病院長、名古屋市美術館参与等を歴任。現在、名古屋私立大学名誉教授、芸術批評誌「REAR」編集同人。専攻、耳鼻咽喉科学。2006年から名古屋ボストン美術館館長。
コメント